「守戦の名将」、これは後世の歴史家・司馬遷が李牧を評した言葉です。
李牧はこの評価通り大軍を率いてきた秦軍を大いに破り奪われた領土を取り戻していきました。
しかし、歴史の結末としては秦は史上初めて中国を統一し秦王朝を築き上げます。
李牧は戦場では秦軍相手によく戦い勝ち続けましたが、趙は滅亡しています。
李牧は負け知らずでしたが、趙は敗れてしまいます。
それには秦による裏工作があり、李牧はそういった根回しとかに疎かったのでしょう。
目次
李牧を恐れた匈奴
趙の北方は匈奴という異民族と接していて、匈奴はよく物資を求めて趙に侵略してきていました。
土地がやせており農耕ができない匈奴は特に冬の時期に攻めてきたといわれています。
さてこの匈奴ですが騎馬民族といわれ生まれたことから馬に乗っており騎馬の扱いに長けていました。
そのため非常に強く騎馬と弓に趙だけでなく漢民族は長年苦しんでいます。
このような相手に李牧は挑んだわけですが、李牧の作戦は専守防衛策で匈奴が来たらとにかく籠城して被害を少なくするように努めました。
この消極的な策は趙王から嫌われ、李牧は長官の任を解かれてしまいます。
李牧の後任の人物は名前も残っていませんが、匈奴相手に果敢に打って出たため大損害を受けたとされています。
匈奴に大損害を与えた
趙王は李牧に再び北方守備の長官に任じますがある時、わざと敗走をして匈奴にわざわざ家畜を略奪させます。
李牧を臆病者の無能だと思った匈奴は今度は単于(匈奴の王)みずから大軍を率いて進軍してきました。
李牧は匈奴の左右に兵を伏せて匈奴を挟撃します。いきなり兵が現れた匈奴は驚き敗走していきましたが10万以上の損害を出し趙への侵略をしなくなりました。
秦軍相手に連勝し守戦の名将となる
もし、李牧が北方守備の長官で生涯を終えてしまった場合歴史に名を残すことはなかったでしょう。
騎馬民族との戦いはあまり歴史に残ることがないので李牧という人物は認知されなかったことでしょう。
桓騎を倒し歴史の表舞台に
趙に攻め入った秦軍は王翦を総大将として多くの城を落としていきました。
さらに桓騎によって扈輒と兵10万を失った趙王は匈奴との戦いで武功を上げた李牧を対秦戦に投入します。
このとき秦側からみた李牧はただの無名の将軍だったことでしょう。
キングダムでは何度も秦と李牧は戦っていますが、史実ではファーストコンタクトになります。
肥下の戦いで桓騎を破るとこれを皮切りに、親征してきた秦王・嬴政は番吾の戦いで30万の軍勢で李牧と戦いますが大敗しています。
この時の秦軍の損害は10万人以上といわれていてまさしく大敗していきました。
趙はこの後旱魃や地震など自然災害にも見舞われますが、李牧がいる間結局秦は趙に勝つことはありませんでした
趙王に疑われた最後
再び趙に攻め入った秦軍ですが、やはり李牧に勝てないと感じ別な方法で李牧を処理しようとします。
秦は趙の重臣・郭開に賄賂を贈って趙王と李牧の仲を引き裂こうと画策します。
郭開の他、趙王の母も同様に賄賂を受け取り讒言したとされています。
李牧は何度も秦軍をはねのけ趙の英雄とみられ、趙軍ほとんどが李牧の配下になっていたため趙を乗っ取ろうとすれば簡単にできたのです。
そのため疑いをもった趙王は李牧を前線の指揮官から外そうといますが、李牧はここで前線から離れてしまえば趙が負けると思ったのかこれを拒否。
結局、余計に疑いをもたれて処刑されてしまいました。
李牧は政治力で負けてしまった
後世の評価で李牧を処刑した趙王が非難されることが多いです。もちろん賄賂をもらって諫言した郭開は議論の余地がない佞臣ですがこのときの趙王・幽繆王が暗君で愚かだったとは思いません。
李牧は趙のほぼ全軍を握っており反乱を起こせば一瞬で趙は李牧のものになってしまいます。
このような状況で前線から外そうとしたのに、それを拒否したのが李牧の命運を立つことになったのです。
これでは反乱の心ありと幽繆王から思われても当然であり処刑されてしまいます。
このように前線の総指揮官が諫言で更迭されるのは、なにも李牧だけでなくて、同時代だけでも廉頗や楽毅などよくあることです。
その点、楚を攻めたときの王翦は秦軍50万の総司令官だったにも関わらず反乱の憂いがないことを秦王に示して処罰されることはありませんでした。
李牧は紛れもなく名将と思いますが幽繆王の心を察することができず、秦の政治工作によって破れてしまったのです。
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