春秋時代末期に起きた呉越戦争は呉王夫差と越王勾践の戦いの歴史です。
当時の中原諸侯は君主たちの権力が減り陪臣の権力が増大したため戦争が減っていきました。
強国であった晋はは3つの国に分裂、斉は田氏に略奪されそうになっていました。
一方、南方に目を向けてみると楚・呉・越は周王朝の威光をすでに無視してそれぞれ王を名乗っていました。
周王室の権威などすでにないも同然です。
その時代に生きた西施は呉を討伐するため大きな役目を果たし、現在でもドラマなど人気が高い女性です。
ただし、西施の記述は史記にはなく荘子や呉越春秋が出典のことが多いです。
目次
呉越の当時の状況
強大な領地や銅山など豊富な資源を持っていた大国楚は、呉によって一時的に首都を落とされ秦の援助によって何とか立て直したばかりです。
呉王闔閭は先王を暗殺するなど内部はあれていましたが、復讐鬼・伍子胥と天才軍師・孫武(孫子)によって富国強兵に努めついに念願の楚を蹂躙することとなります。
呉が楚まで遠征している間に南方に位置する越は牙をむきます。
越王允常は呉を攻撃しますが、戦果を挙げることはできず恨みを買ってしまいます。
呉が仕掛けたのは越王允常が死亡してすぐでした。
允常の死を聞いた闔閭はすぐさま越の討伐を行います。
このとき呉越が戦った檇李の戦いは越の臣下・范蠡の奇策によって越の勝利。
大敗した呉は闔閭が負傷しこの時の怪我がもとで死亡してしまいます。
闔閭の後を継いだのが夫差でした。
呉は数年間越と戦うために準備して越を打ち破りますが、伍子胥の反対を押し切って越の降伏を認めます。
以後、呉王夫差は中原で覇者となるべく中央に目を向けていきます。
呉の注意が中原に向けられた中で越は呉を倒すため着々と準備を進めていく。
今回のテーマである西施も呉討伐作戦の一環として送られたものです。
西施とはどんな人?
西施は楊貴妃・貂蝉・王昭君とともに古代中国四大美人に数えられる女性です。
会稽という現在の浙江省紹興市(紹興酒が有名)で生まれた西施は、美女を好む呉王夫差を骨抜きにするため范蠡によって送り込まれます。
西施は苧蘿村という小さな村に住んでいたところを、人相見によって発見され宮中での作法・舞踊や音楽を身につけさせられてから献上されました。
呉王夫差は西施を一目見ると気に入り「越王の忠義の証である」と越側の思惑も知らずに感激したそうです。
西施は呉の後宮に入り夫差の寵愛を受けることになりますが、ここでも伍子胥の妨害が入ります。
伍子胥は「殷の紂王も美女によって滅びました。美女は国の禍となります」と忠告します。
しかし、傲慢になってしまった夫差に伍子胥の諫言も通らず西施を寵愛し続けます。
伍子胥は疎まれついに自害させられ越有利の状況は加速します。
呉の滅亡
夫差は中原で開かれた会盟に軍の主力を率いて向かったスキをついてついに越が反撃に出ます。
呉の都・姑蘇城は少数の兵と太子が守っていましたがすぐに撃破され、捕縛した太子も珠殺しますが、夫差はすぐに戻ってきたため和平を結びました。
この時まだ越は呉を制圧するまでの力はなかったのです。
結局、夫差は越に負けて滅ぼされたのですが西施は呉の国力を削ぐように働きかけます。
西施は姑蘇城の王宮や別荘である姑蘇台を夫差に改築するように促し国力を削いでいきました。
大量の税金・人員・材木を投入した呉は越の思惑通り衰退していき、ついに勾践によって滅ぼされてしまいます。
沈魚美人(ちんぎょびじん)
西施の美しさを表した”沈魚美人”という言葉が残っています。
ある日、西施がまだ村に住んでいた時川に洗濯しに行きました。
川に入った西施を見た魚はその美しさに驚き、泳ぐことも忘れ遂には溺れて沈んでしまったといわれてます。
西施の欠点は大根足
古代中国の美人代表の四大美女には俗説ですが、それぞれ欠点があったといわれています。
それぞれの欠点は、
楊貴妃が腋臭、王昭君がなで肩、貂蝉が耳が小さいこと
そして西施の欠点は大根足、つまり足が太いということです。
そのため、足が見えるような服を着ることはなかったそうです。
西施と范蠡の関係
西施を呉に送り込んだ張本人である范蠡ですが、この二人のラブロマンスが中国では古くから人気です。
いろいろな話があるのですが、呉を打った後に范蠡は西施を連れて越を飛び出し他国で余生を過ごしたという話があります。
その後、范蠡は名前を変え斉や宋で商売に成功し大商人になったとされています。
同じく越の重臣であった文種が自害させられたことに比べ、范蠡の見事な転身生活は中国人のあこがれとされています。
顰に倣う(ひそみにならう)の由来と意味
荘子には西施の美しさにちなんだ”顰に倣う”という言葉がありますので紹介します。
西施には胸に持病がありある時発作が起きた。
西施は胸元を抑え眉間(顰)にしわを寄せ苦しんだが、その姿を見た村人はそのか弱い美しさに胸を打たれたそうです。
ある一人の醜女がこの時の西施をマネして、眉間にしわを寄せ村人の前に現れましたが今度は奇怪な姿を見て逃げていきます。
このことが顰に倣うの語源となり、現代ではむやみに人をマネするのは愚かなことの意味で使われています。