項羽を破って建国した漢はそれから400年近く栄華を保つことになります。
しかし、外からは見えなくとも中では権力闘争が起き続けています。
漢の最初の権力闘争は劉邦の皇太子を決める時でした。
劉邦には小役人時代からの妻・呂雉が正妻でその子が皇太子にされていました。
しかし、劉邦は寵愛する戚夫人との子・如意を皇太子にしたいと思い始めます。
結局は呂雉との子が皇太子のままで漢の二代目皇帝・恵帝になりますが、呂雉は劉邦がいなくなった今戚夫人・如意に復讐をしていきます。
目次
呂雉(呂后)とは
呂雉は漢王朝の創始者である高祖・劉邦の皇后で二代目皇帝・恵帝の実母になります。
呂雉はまだ世に知れ渡る前の小役人時代に劉邦と結婚しその後劉邦は漢中王・皇帝と空前の出世を遂げ、呂雉も正妻として最高位にたどり着きました。
劉邦が漢の高祖といわれるように呂雉も高后と呼ばれていました。
劉邦と結婚まで
呂雉はその姓のとおり、呂公(呂文叔平)の娘として誕生しました。
呂公は劉邦がいた沛県に移住し、宴会で「一万銭」という下級役人ではとても出せない金額をツケでだした劉邦を気に入り呂雉を嫁がせています。
劉邦に嫁いだ呂雉は劉邦の実家の農業と手伝いながら、後の恵帝と魯元公主を育て劉邦が挙兵後も家を守ったとされています。
ある時、人相実が得意な老人が呂雉にこう述べます・
老人
その後、彭城の戦いで劉邦と項羽の戦いが白熱すると、劉邦の父とともに項羽に捕らえられいつ殺されてもおかしくない状況になってしまいます。
恵帝と魯元公主は劉邦と共に馬車で逃げましたが、ここでも事件が発生します。
馬が疲れてきたと感じた劉邦は馬車を軽くするため、わが子二人を馬車から投げ捨てます。
なんとか夏侯嬰の説得で恵帝・魯元公主は再び馬車に乗ることができましたが、このことが呂雉の心情に影響したことは間違いないでしょう。
戚夫人との因縁
楚漢戦争中は劉邦と離れ離れだった劉邦ですが、女色を好む劉邦は戚夫人を見初め寵愛したとされています。
劉邦は遠征中も常に戚夫人を従わせたとされていますから、項羽における虞美人のような存在だったのでしょう。
やがて戚夫人は劉邦との子・劉如意を産みます。戚夫人はことあるごとに如意を皇太子にするよう懇願し、劉邦もおとなしい性格な恵帝よりも活発だった如意を可愛がったため本格的に皇太子交代に動き出します。
まず、漢王朝の重臣に交代の是非を問うたところ、大反対を受けます。さらに張良はかつて劉邦の招きに応じなかった賢者を恵帝を招きます。
劉邦
賢者
周りの意見を聞いて皇帝になった劉邦は臣下の反対を押し切って皇太子を変えることができませんでした。
また、賢者を従えた恵帝が臣下にも影響を与えたことは間違いないでしょう。
劉邦は戚夫人を呼び、如意を皇太子にすることをあきらめ呂雉を主とすることを認めさせたといいます。
劉邦死後の呂雉
劉邦は英布の反乱を鎮圧するときの傷が原因でついに崩御します。
後を継がせたのは呂雉との子・恵帝でした。母である呂雉は皇后から皇太后(皇帝の母)となり実質的に最高権力者になります。
呂雉の行動は素早く戚夫人はすぐさま牢獄に監禁されてしまいます。牢獄での戚夫人は一日中豆を挽く刑罰を受けたとされています。
監獄の中戚夫人は永巷歌という歌を残しています。
子は王と為り、母は虜と為る。終日春(つき)て暮に薄る、常に死と伍と為る。相ひ離るること三千里、當に誰をして女に告げしむべき。
戚夫人
子の如意は趙王となり戚夫人がいる長安と大きく離れていました。
劉邦の寵姫から一転、囚人として明日の命もわからなくなってしまった戚夫人にこれ以上の悲劇が待ち受けることになります。
趙王・如意の危機
戚夫人と同じく子の如意にも呂雉の魔の手が伸びてきます。
劉邦は自分の死後呂雉が如意に危害を加えることを予見して、剛直の士・周昌に補佐を頼んでいました。
劉邦の死後如意はすぐに長安に参内するように求められますが、周昌が如意を病と称して参内を断り続けます。
しかし、それならばと周昌をまず参内させ補佐がいなくなった如意を次に参内させることに成功します。
呂雉の思惑通りになるはずでしたが、思わぬところから救いの手が差し伸べられます。
如意の異母兄で呂雉の実子・恵帝が如意を守ったのです。
恵帝は如意と寝食を共にし暗殺させないようにと懸命に取り計らったのです。
恵帝の作戦はうまくいき1年余り如意は無事なままでした。
しかし、恵帝が狩りに向かう朝に如意はまだ眠っていました。心優しき恵帝は起こすのはかわいそうと思い如意を残して狩りに出かけたところ、毒殺されてしまいます。
人豚事件・古代中国最大の猟奇殺人
如意の始末が完了した呂雉は本格的に戚夫人への復讐を開始します。
当時の厠(トイレ)は豚小屋の上に作られていて、糞尿は下の豚小屋に流れ豚がそれをエサとし飼育されていました。
その豚小屋に戚夫人は入れられることになります。
それだけではありません。
戚夫人は、両手両足を切り落とされ、目をくりぬかれ、耳を落とされ、喉をつぶされた状態にされ人豚(人彘)と周囲のものに呼ばせました。
どのタイミングで戚夫人がなくなったのかわかりませんが、少なくとも数日間は地獄以上の苦しみを味わったことでしょう。
声も出せず暗闇の中で彼女は息を引き取りました。
呂雉はこの状態の戚夫人を実子の恵帝に見せます。
呂雉がなぜ見せたのかはわかりませんが、権力闘争に負ける意味を分かってほしかったのかもしれません。
しかし、恵帝のメンタルは崩壊してしまい以後酒と女性に溺れることで現実逃避に走ってしまい23歳の若さで崩御してしまいました。