曹操が後継者を曹丕にした理由は?曹植はなぜダメだったのか?

今日においても、事業承継は経営者にとって悩みの種です。候補者のうち、真に事業を発展させてくれる人物は誰なのか、それをいかに判断すればよいのか。

それら自体が大変難しい問題であるだけでなく、対応を誤れば、候補者と目される人物の下に様々な人物がすり寄っていき、ひいては社内が複数の派ばつに分裂してしまうことにもなりかねません。

三国志の時代においても、次世代への大業の承継に失敗した勢力、たとえば、河北かほく袁紹えんしょう荊州けいしゅう劉表りゅうひょうらは、三国鼎立ていりつを前に自滅しています。

今回は、曹操そうそうの後継者選びからこの難しい問題のヒントを探ってみようと思います。

曹操が求める人物

赤壁せきへきの戦いの後の210年、曹操そうそう求賢令きゅうけんれいを布告し、家柄や品行よりも才能を重視した登用方針をうちだします。

曹操そうそう自身が宦官かんがんの義理の孫であり、家柄では袁紹えんしょうらに劣っていたにも関わらず、自らの能力と優秀な部下の働きによって台頭してきたわけですから、身分や過去の経歴にこだわることの不合理さを実感していたのでしょう。曹操そうそうは、兄嫁と密通するような人物であっても才能があれば用いるべきとまで述べています。

また、荊州けいしゅう劉表りゅうひょうが自ら所有する巨大な牛を自慢していたのに対して、曹操そうそう荊州けいしゅうを降した後、その牛を「大きいだけでは意味がない」と言って屠殺とさつして酒のさかなにしてしまったという話もあります。

このような徹底した合理主義者の曹操そうそうからすれば、自身の後継者にも任に堪え得る才能を求めてもおかしくないとも思えます。

曹操の子供で優れていたのは誰?

 では、曹操そうそうの息子たちのなかで、最も後継者としての才能に溢れていたのは誰だったのでしょうか。

曹操そうそうは宛での敗戦(197年)の際、劉氏りゅうしが生んだ曹昂そうこうを失いました。

曹昂そうこうを養子にしていた正室せいしつ丁氏ていしはこれにより曹操そうそうと離縁し、卞氏べんしが代わって正室せいしつの座につきます。

曹操そうそうの後継者は、卞氏べんしが生んだ息子たちに絞られることとなりました。卞氏べんしの次男の曹彰そうしょう勇猛ゆうもうではあっても思慮しりょが足りず、四男の曹熊そうゆうは病弱であったため、曹操そうそうの後継者はもっぱら長男の曹丕そうひと三男の曹植そうしょくに絞られることとなりました。

曹丕か曹植か


 三男の曹植そうしょくは、三国志のゲームなどでは文才のある知識人というイメージが強いですが、実は烏丸征伐、潼関どうかんの戦い、漢中かんちゅう平定戦へいていせんなど多くの戦に従軍しており、兄らと同じく青春時代から戦場の空気を知っている人物です。

それに加え、曹植そうしょくは父・曹操そうそう、兄・曹丕そうひと並び「建安けんあん文学の三曹さんそう」の1人であり、なかでもとりわけ曹植そうしょくは「中国を代表する文学者」として名高く、その作風は勇壮かつ華麗なものから悲壮感あふれるものまで多様性に富み、後世の文学者からも最上級の賛辞を受けるほどの才能の持ち主でした。

ただ、礼法に拘泥こうでいせず酒を愛する部分が、奔放で天才肌の彼らしさである反面、品行の面で問題視されることにもなりました。

曹丕の品性は最悪?

 しかしながら、品行という面では兄の曹丕そうひも負けてはおりません。たとえば、樊城はんじょうの戦いで関羽かんうに捕えられた于禁うきんに帰還した際、曹丕そうひ于禁うきん曹操そうそうの墓参りを勧めたという話があります。

于禁うきん曹操そうそうの陵に赴くと、龐徳ほうとく降伏こうふくを拒絶し、于禁うきん降伏こうふくしている絵が掲げられていました。

これを見た于禁うきんは怒りと面目なさから憤死ふんししたといいます。

部下に対する思いやりに欠ける行動ともいえましょう。また、ある日、曹丕そうひが馬に乗ろうとすると、その馬は曹丕そうひの衣服の香を嫌って曹丕そうひの膝に噛みつきました。

これに激怒した曹丕そうひは即座にその馬を殺したといいます。さらに、立太子を知った曹丕そうひは喜びのあまり辛毗しんぴの肩に抱きつくほど浮かれていたそうですが、それを見た辛毗しんぴの娘の辛憲英しんけんえいは行く末を案じたといいます。

地味な曹丕か才豊かな曹植か

確かに、曹植そうしょくのようなわかりやすい失礼さや酒癖の悪さはありませんが、これらはトップとしては軽量級という印象を受けるエピソードといえましょう。

建安けんあん文学の三曹さんそう」の1人ではありますが、文才においては曹植そうしょくのような天才肌でもありません。

こうして見ていきますと、才能で選ぶのであれば、兄の曹丕そうひを差し置いて弟の曹植そうしょくを後継指名するという判断もあり得たようにも思われます。 

曹操が選んだのは?


 優れた決断力で中原ちゅうげんの覇者となった曹操そうそうも、自身の後継者選びには珍しく迷いが見られたようです。しかし、最終的には兄の曹丕そうひを後継者に決めました。

決断の決め手となったのは、後継者としての才能があるのは誰か? といういわば実質基準を放棄して、「長幼ちょうようの序」という形式基準を採用したことでした。

なぜ曹丕が選ばれたのか?

 曹操そうそう謀臣ぼうしんのなかに、賈詡かくという人物がいました。曹操そうそうから後継者について尋ねられた賈詡かくは、即答を控えました。

曹操そうそうの後継者選びが曹丕そうひ派と曹植そうしょく派に割れている状況下で自らの立場を表明することには慎重であるべきとの判断かもしれません。

ただ、賈詡かくは明言は控えつつも、「袁紹えんしょう劉表りゅうひょうのことを考えておりました」とだけ述べています。

袁紹えんしょうの息子たちは、自分こそが後継者にふさわしいということをアピールしようとした、つまり、実質基準で認められようと努力しました。その結果、兄弟で相争うこととなり、袁紹えんしょう死後も旧袁紹えんしょう勢力の分裂を招いて、かえって敵である曹操そうそうを利する結果となってしまいました。

また、荊州けいしゅう劉表りゅうひょうの死後も、長男の劉琦りゅうきではなく、劉表りゅうひょう後妻ごさい蔡氏さいしの女性との間に生まれた劉琮りゅうそうが跡を継いだ結果、曹操そうそうは苦もなく荊州けいしゅうを手に入れることができた、つまり、形式基準に反する後継者が荊州けいしゅうを滅ぼしたわけです。

最期に


 実質基準を持ち出せば後継者間で争いが生じて国が分裂してしまうし、形式基準に反すれば「長幼ちょうようの序」という観点から将来の禍根かこんとなる。そして、まさにこれらにつけ入る形で勝利を収めてきたのが曹操そうそう自身だったわけです。曹操そうそうは、「長幼ちょうようの序」という形式基準によって兄の曹丕そうひを後継者と決めました。これならば、誰が判断しても結論は明確です。つまり、曹植そうしょく曹丕そうひよりも後に生まれたから後継者になれなかったのです。

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