官渡の戦いとは、曹操と袁紹の間で行われた、長江以北の覇権を決定づけた戦いです。
赤壁の戦い、夷陵の戦いと共に三国志の時代の流れを決定付ける重要な戦いと見なされています。
官渡の戦いは三国志において前半最大の見せ場だと思います。
今回はそんな官渡の戦いを紐解いていきたいと思います。
目次
どうして官渡の戦いは起こったの?
当時、後漢皇帝は名目だけの存在となり、各地で群雄が割拠する戦乱の世でした。
次第に群雄たちが淘汰される中で勝ち残ってきたのが曹操と袁紹。
曹操は濁流派に属する宦官の家系の出身であり、黄巾の乱で功を立てて頭角を現し、
数々の戦いの後に献帝を庇護したことで正当性まで手中に収め、兗州・豫州・司隸州・徐州の4州を支配していました。
袁紹は四世にわたって三公を輩出した名門中の名門汝南袁氏の頭領であり、反董卓連合などでは一線に立っており、どんどん勢力を拡大していきます。
そして、冀州・青州・并州・幽州の4州を支配していました。
中原の二大勢力となった両者の対立は必至、と言われていますが、単に二人の仲が悪かった、という説もあります。
結果論かもしれませんが、この時点で袁紹は曹操を攻撃するよりも、
もっと他国を攻めて領土を拡大し、最後に曹操を討つ、という考え方もあったわけです。
実は袁紹が青年時代に不良少年仲間としてつるんでいた一人に曹操がいたのです。
曹操は文武両道に秀でていて、若き袁紹はいかに自分が彼にかなわないかを痛感させられていました。
名家出身の高いプライドと、曹操への個人的劣等感があったのかもしれません。
でも後で説明しますが、これ程の戦力差があれば袁紹も勝てると思っていたのかもしれませんね。
果たして真の理由は何だったのか、それを考えるのも楽しいかもしれませんね。
官渡の戦い直前の曹操陣営
さて、お互いの陣営を紹介したいと思いますがまず曹操軍。
総大将はもちろん曹操、そして主な指揮官には荀攸、史渙、于禁、楽進、関羽、曹洪、曹仁、徐晃、張遼、張繍、程昱、郭嘉、賈詡など。
あれ?関羽?と思った方もいるかもしれませんが、この時関羽は曹操の捕虜となり、客将となっていました。
官渡の戦い直前の袁紹陣営
そして袁紹軍ですが、総大将はもちろん袁紹、そして主な指揮官には郭図、沮授、田豊、淳于瓊、顔良、文醜、張郃、劉備など。
そしてこちらもいろいろとツッコミどころ満載。劉備は曹操へ反乱を起こしますが失敗し、袁紹の元に身を寄せていました。
張郃って袁紹配下だったの?と思う方もいるかもしれません。コアな三国志ファンは郭図参戦というだけでもう袁紹の負けフラグ確定なのがわかっていただけるでしょう。
そして鼻をそがれた淳于瓊、とキリがないのでこの辺にしておきましょう。
お互いの兵力差と実力差
お互い4州支配していますが、曹操の領地は長く続いた戦乱の影響で荒れ果て、
人口が激減し兵力も経済力も本来のものより大きく低下していました。
これに対し、袁紹の領地は被害が少なく、人口の規模が保たれていたため、袁紹は曹操の何倍もの兵力を備えています。
兵力差は曹操軍7万に対して袁紹軍70万!!
え?0の数間違ってませんか?いえいえ、合ってます、70万と7万、何とその差10倍なのです。
その上、袁家は代々後漢の重臣を輩出する名門の家柄であったため、その名声を頼って仕官する人物が絶えず、優れた軍師や将軍を数多く抱えていました。
とは言っても曹操の指揮官ラインナップの方がすごく思えますが。
こうした状況であったため、曹操も袁紹と戦って勝利できるかは確信しておらず、朝臣たちに戦いの是非を問うています。
荀彧の進言
両者の戦いが本格的に開始された時、曹操の陣営にいた孔融は戦いを避けるように進言しますが、曹操の最も信頼する荀彧はこれに反論します。
荀彧
あれ?禰衡(三国時代で口が悪くて有名な人)さんじゃないですよね?という程の言いようですね(笑)。曹操はこの荀彧の言葉を受け入れ、袁紹との戦いを継続することを宣言しました。
前哨戦である白馬・延津の戦い
そして前哨戦ともいえる白馬・延津の戦いが起きますが、ここで既に袁紹はたくさんの有能な人材を失います。
袁紹陣営の中で特に有能だった沮授と田豊、郭図の嫉妬?のために沮授は権限を奪われ、田豊は持久戦法を繰り返し主張したことを疎み、投獄してしまうのです。
袁紹は自らの陣営の力を弱める動きを戦いの前に進めており、せっかくの有利な状況を損なっていきました。
荀彧さんのご指摘通り、袁紹軍の人材には性格的な欠点を持つ者が多く、袁紹がそれを飲み込んだ上でうまく活用できるだけの度量を持っていなかったため、内部分裂が進行していくことになります。
ここが曹操との大きな違いですね。
そしてこの白馬・延津の戦いで荀攸が軍師として活躍し、顔良が関羽に討ち取られ、文醜も荀攸の計略で孤立し、討ち取られます。
こうして前哨戦で前線を担える将軍2人を失い、数少ないまともで的確な献策をする沮授の意見を聞かずに勝手に嫌う、といういろんな意味で有能な人材を失ったのでした。
本戦・官渡の戦いスタート
曹操は白馬から撤退した後、あらかじめ砦を気付いて準備をしていた官渡に移動し、迎撃態勢を整えます。
袁紹はこの防衛線を崩壊させるため、10万の大軍を用いて攻撃を開始します。
この時に沮授が再び「曹操には速戦が有利で、我が方は持久戦が有利です」と言って攻撃を自重するように進言しますが、
袁紹はまたも退けています。郭図の策略がすごく効いていますね(笑)。
袁紹は大軍の利を活かすために東西に広く軍勢を展開し、全体を少しずつ進ませて敵を攻撃する、という方法で進軍しました。
これには曹操も有効な対応策を繰りだせず、軍を展開して迎撃しますが食い止めることができません。
「大軍に兵法なし」という言葉のように袁紹はその兵力を存分に活かせる陣形を用い、曹操につけ込む隙を与えませんでした。
曹操に得意な奇襲も使わせず、封じ込めていました。
この時の戦術に関して袁紹は的確な選択ができていたことになります。
砦に籠るも荀彧に励まされる曹操
野戦に敗れた曹操は砦に籠り、籠城戦に入ります。天然の地形を活かして作られたこの砦は非常に堅固で、
袁紹軍も進軍を食い止められてしまいます。高い櫓を作って矢を射る袁紹に対し、
発石車で櫓を打ち砕く曹操。しかし兵力に劣り兵糧の蓄えも十分でなかった曹操軍は、日ごとに疲弊の色が濃くなっていきました。
こうして沮授が予測したとおり、曹操軍には厭戦気分が蔓延しはじめ、武将の中には袁紹と内通しようとする者まで現れます。
さしもの曹操もこの状況に弱気になり、荀彧へ「本拠の許昌まで下がって袁紹を迎え撃つのはどうだろう?」と撤退をほのめかす書簡を送って相談しています。
これに対し荀彧は「耐えていれば必ず袁紹の陣営には変事が発生し、策を用いて討ち破れる機会が訪れます」と返事を送り、
官渡での戦いを続けるようにと促しました。この荀彧の励ましと予測を受け入れた曹操は、厳しい防衛戦を継続することを決意します。
ここでも大将の器の違いがわかりますね、優れた助言者(荀彧と沮授)の言葉を受け入れる曹操と退ける袁紹、ついには戦にも影響を及ぼすことになるのです。
お互いに兵糧を狙い防衛する
官渡の砦の攻防戦が膠着状態になり、曹操も袁紹もお互いに相手の兵糧補給を妨害し始めます。荀攸の作戦により、
多くの穀物を焼き払うことができ、袁紹軍は補給に困難を来すようになっていきました。
これに対抗するため、袁紹軍も曹操軍の輸送隊を攻撃するようになりました。
このため、両軍とも食料の不足が深刻になっていきます。
これ以上の兵糧の喪失を防ぐため、袁紹は淳于瓊に軍を預けて烏巣の食料備蓄庫を防衛させます。
この時に沮授が蒋奇を淳于瓊の支援に付けるようにと進言しますが、これも袁紹は受け入れませんでした。
沮授は烏巣の防衛の成功がこの戦いの勝敗を左右すると考え、防備にはもっと多くの戦力を割くべきだと判断したのですが、
残念ながら袁紹にはそのことが理解できませんでした。一方で曹操も任峻に輸送隊を守らせる措置を取り、
これによって袁紹軍は曹操軍の食料に手出しができなくなっています。
こうして双方の兵糧輸送を妨害する策も効果を発揮しなくなるかと思われた時、
ついに荀彧さんが予測した「袁紹陣営の変事」が発生するのです!
ターニングポイントである許攸の寝返り
袁紹軍の幹部、許攸。袁紹や曹操と幼い頃からの友人であり、
策を立てるのに巧みであったことから田豊とも並び称されるほどの名声を得ていました。
しかし欲深な性格で、袁紹が与えてくれる待遇には満足しておらず、今回も献策を却下されてしまいます。
また、この頃に罪を犯した家族が審配に逮捕されてしまったことで、
袁紹陣営にとどまる意欲を完全に失っていました。このため、許攸は曹操が旧友であったことを頼りに、袁紹を裏切ります。
この行動がターニングポイント、官渡の戦いに決着をもたらします。
許攸は曹操に面会すると袁紹軍の兵糧の大半が烏巣にあることを教え、そこを強襲して兵糧を焼き払えばこの戦いに勝利できると告げます。
曹操軍の幹部たちは許攸のもたらした情報を信用しませんでしたが、
荀攸はこれが決定的な勝機であることをすぐに理解し、許攸の策を用いるべきだと曹操に進言しました。
これを受けて曹操はただちに決断し、自ら5千の兵を率いて烏巣に向けて進軍を開始します。
そして守備についていた淳于瓊の部隊を強襲し、激しい戦いが展開されました。
対応を誤った袁紹
対応を協議する袁紹本陣、
ここで郭図は「曹操が不在の隙をつき、本陣を襲撃して撃破すれば、曹操は引き返さざるを得なくなって撤退するでしょうから、烏巣に援軍を送る必要はありません」と進言します。
これに対し張郃は「曹操軍の本陣は守りが固く、容易に討ち破ることはできません。それよりも淳于瓊への救援に全力を差し向けるべきです」と主張。
これを受け袁紹は両者の意見をともに採用する、という中途半端な措置を取ってしまいました。その上、本陣の攻撃に反対した張郃をその担当者に任命してしまうのです。
そしてたいした援軍を送られなかった烏巣の守備隊は壊滅。淳于瓊は楽進に討ち取られ、烏巣は備蓄されていた兵糧を焼き払われ、袁紹軍は継戦能力を失うのでした。
張郃の降伏
張郃は曹操軍の本陣を攻めますが自身の予想通りその守りは固く、守将の曹洪の指揮が巧みなこともあり撃退されてしまいました。
自分が反対した役目を押し付けられ、そのうえ烏巣が陥落したという情報も伝わってきたため、張郃は袁紹を見限り曹操軍に降伏しました。
この時に袁紹の陣営では、責任を取らされることを恐れた郭図が張郃らを貶める発言をしており、そういった状況も伝わっていたと思われます。
こうして烏巣をめぐる攻防が行われたその日に、袁紹は食料も優れた将軍をも失い、
これ以上戦いを続けることが不可能となりました。
ついに決着!
袁紹はやむなく敗北を認めて本拠の冀州へと撤退し、官渡の戦いは曹操の勝利に終わりました。
この時に沮授は曹操軍に捕縛されてしまいます。曹操は沮授と旧知の中であり、
その優れた能力を買って自軍に降るように勧誘しますが、沮授はこれを拒絶。
このために捕虜にされますが脱走を図ったため、曹操軍の兵士によって殺害されてしまいました。
また、袁紹は田豊の作戦を採用せずに敗れたことで、帰還後に彼から嘲笑を受けることになるだろうと予測し、先手を打って処刑してしまいます。これは田豊と仲が悪かった逢紀が袁紹をそそのかし、それを受けた措置だとも言われています。
この結果、袁紹は敗北後の立て直しに必要な2人の優れた人材をも更に失い、その勢力の衰退が決定づけられてしまうのでした。
どうしてこの兵力差で袁紹は負けたの?
兵力差は袁紹70万に対し、曹操は7万、一時期は「大軍に兵法なし」の言葉通りに押していた袁紹、どうしてこのようなジャイアントキリングを許してしまったのでしょうか?
それはやはり総大将の器の差ではないでしょうか。兵力差は歴然としていましたが、
有能な人材にはそれ程差がなかったお互いの陣営。荀彧や荀攸を信頼してその進言や策を用い、
不利を覆して勝利を得た曹操に対し、袁紹は沮授や田豊の進言を受け入れず、あの男の策略にハマってしまいました。
その男とは?そう、郭図です、沮授の権限を奪い、袁紹に取り入って自身の出世を図り、
あげくに策を誤って官渡の戦いを敗北に導いた迷軍師、利己的かつ無能なふるまいが目立った人物であると言えるでしょう。
もし曹操の間者だとしたらある意味すごいのですが(笑)
しかし、最終的にはそのような人物を重用した袁紹の責任であると思います。
やはり曹操と袁紹、総大将としての器の差がこの兵力差よりも大きかったのではないでしょうか。