曹操は家柄や品行ではなく、才能のある人材を積極的に登用することを求めました。
真に才を持つ人物を登用することが、
合理的に政治を行うことにつながると感じていたのではないでしょうか。
210年の『求賢令』では、呂尚や陳平の例を挙げ、「個人の才能を重視し、
家柄や過去にこだわることなく、また当時身分の低かった専門職も積極的に用いる」という指針を立てていました。
後世で曹操が人材マニアと呼ばれるのはこうした話が現代まで伝わっているからです。
ちなみに軍事面でも曹操は類まれな才能を持っています。
目次
徹底的な合理主義者だった曹操
『世説新語』軽詆篇によると、荊州の劉表は荷車は引けないが大食の巨大な牛を所有していて、
それを周囲に自慢していました。
しかし曹操は荊州を征服した際、その牛を「どんなに大きくても役に立たないのでは意味がない」と見なし、
屠殺して宴の肴にしてしまったそうです。
曹操軍の弱点を克服した屯田制
農政において、他の群雄達は農民から略奪のような事をして兵糧を確保していました。
当時、曹操は韓浩・棗祇らに提言された屯田(屯田制)と呼ばれる
農政(戦乱のために耕す者がいなくなった農地を、官の兵士が農民を護衛して耕作させる制度)を行いました。
当初こそ難航しましたが、袁渙の提案や任峻の尽力などにより軌道に乗せることに成功し、
これによって潤沢な食料を抱えるようになった曹操は、各地の民衆を大量に集めることができるようになりました。
この屯田制が、後漢の群雄割拠の中で他の群雄たちより家柄で不利だった曹操が、他の群雄を退け勝ち残る理由の一つとなりました。
朝廷内の意思統一のため三公を廃止し、丞相と御史大夫の復活による権限の一元化を図っただけでなく、
地方分権型から中央集権型への移行で軍閥を抑制し、州の区分けを再編することを目的とした合併独立など、
いくつもの合理的な策によって地盤を強固にしていきました。
現実的な人材登用法と公地公民制度で政治の合理化を図った曹操は、
群雄割拠の時代において非常に大きな存在として君臨することになります。
才と義あふれる関羽を溺愛
しかし、上記のような強引・冷徹な合理主義者というだけの人物ではなかったようです。
200年、曹操の攻撃を受けた劉備が袁紹の下に敗走した際、関羽は曹操の捕虜となりますが、
曹操は関羽に礼を尽くして遇し、偏将軍の地位に任命します。
袁紹軍と曹操軍が戦争を始めると、曹操は関羽に呂布の下から曹操に下った張遼とともに白馬県を攻撃していた顔良の討伐を命じます。
顔良の首級を持ち帰ってきた関羽を見た曹操はすぐに上表し、関羽を漢寿亭侯に封じました。
曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していましたが、
自分の下に長く留まりはしないだろうとも思っていました。
そこで、張遼に関羽への質問を頼み、
その結果関羽が劉備を裏切ることはないこと、
曹操への恩返しが終われば曹操の下を去るつもりであることを知ると、曹操は関羽の義心に感心したそうです。
同時に、顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると考えた曹操は、関羽に重い恩賞を与えました。
しかし、関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げたのち、
袁紹のもとに身を寄せていた劉備の元へ去ってしまいます。
曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせたそうです。
反対に、優れた人物であっても利害の絡まない場合であれば、
孔融や許攸、華佗など不遜な態度をとって曹操のプライドを傷つけた人物を容赦なく処刑したり、
自害に追い込んだりすることもありました。
以上のことから、単なる徹底的な合理主義者ではなく、時には人柄に感じ入って、
喉から手が出るほど欲しかった人材でも、本人の意思を尊重したりしています。
利害の絡まない場面では傲慢な人物を容赦なく切り捨てる人間臭い一面もあったと言えるのではないでしょうか。
曹操が人材マニアといわれる事情
曹操の下には、荀攸や程昱、荀攸、夏侯惇、棗祗、陳琳など、
武力以外の分野において非常に優れた人材が多くいました。
前述のとおり、『求賢令』によって、身分や家柄が低く埋もれていた才能を発掘しようとしたり、
呂布の配下だった袁渙を礼遇したように、優れた人物であれば敵方にいた降伏者であっても尊重し、重用しました。
この時点で、優れた人材であれば過去や家柄にこだわらず積極的に登用するという姿勢が完成されていました。
それ以後も、210年に『求賢令』を発布し、礼遇をもって様々な人材を自軍に招いていきます。
志が高い人が大好きだった曹操
呂布を滅ぼした際に他の降伏者たちが曹操に平伏する中、
袁渙だけは曹操と対等の挨拶をしたこと、曹操が降伏者に物資を分け与えた際、他袁渙は書籍数百巻と僅かな量の食料を引き取っただけだったことから、
曹操は袁渙をひとかどの人物として認め、内政面で重用しました。
曹操の下に降った袁渙は、忠直の士として名声が高く、清貧をよしとしただけでなく非常に慎重な性格で人民から慕われていたそうです。
また、道徳的にも優れた人物であったようで、ある時に劉備が死んだとの噂が伝えられたときも、
他の諸官がそれを喜び祝っている中で、ただ1人それに与しなかったそうです。
この袁渙は、屯田制の実施において非常に大きな働きをし、曹操の足場固めに重要な役割を果たすこととなりました。
人物だけでなく兵隊にもマニアっぷりを発揮
192年、黄巾賊討伐の詔勅を受けた曹操は自ら鎧を身に着けて討伐に向かい、黄巾軍の兵や非戦闘員を降伏させ、
その中から精鋭を選んで『青州兵』と名付けて自軍の配下に加えました。これ以降、曹操の実力は大きく上昇します。
また、降伏させた烏桓族を中国の内地に住まわせ、烏桓の兵士を自軍に加入させて戦力の拡充を図りました。こうして加わった曹操軍の烏桓の騎兵は、その名を大いに轟かせることとなります。
まとめ
陳琳・王粲・阮瑀・徐幹ら文人には秘書として機密を扱わせ、荀彧・荀攸・程昱ら軍師・参謀を軍事・政治顧問に据えるなど、
優れた人物にそれぞれ適した場所で手腕を発揮させることにも曹操は長けていました。
武勇に長け、義心の強かった関羽を手元に置こうと、手厚すぎるほどの恩賞を下賜することもあったようです。
以上のことから、人材マニアでありながらもその実力を腐らせず、
適した場所で適切にその力を発揮させることができる有能な司令官であったと言えそうです。