董卓が殺害され長安から洛陽そして許都で曹操に保護された献帝は以降操り人形のように、曹操に命運を握られたまま過ごします。
献帝が曹操に庇護されたことにより、諸侯は朝廷を顧みずおのおの独自に支配地を統治していきます。
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群雄割拠と淘汰
董卓死亡後は多くの勢力がいますが、時間とともに数が減りそのかわり少ない勢力で、多くの土地を支配していきます。
この時の有力な勢力といえば冀州をおさめていた袁紹、西涼をおさえる馬騰、荊州をおさえていた劉表、そして兗州をおさえていた曹操です。
長安をおさえていた李確・郭汜は曹操軍に打ち取られて滅亡しています。
冀州の袁紹はその後幽州の公孫瓚を破り、冀州・幽州・并州を抑える一大勢力となります。
この時の最大勢力は袁紹で、兵糧も豊富で人馬も数多くそろっていました。
中国の言葉で「南船北馬」という言葉がありますが、これは北は馬が主流で南は船が主流という言葉です。
北のほうでは馬が多くいてそのため軍馬の調達も容易でした。また、北では農耕や商業も南より盛んで人が多く住んでいたことから兵士も数多く保有できたのです。
土地の広さでは益州の劉焉、荊州の劉表も匹敵していましたが人馬の数と兵糧を考えると袁紹が突出した軍事力を持っていました。
曹操の勢力拡大
兗州を拠点にしていた曹操は、徐州の陶謙に父や弟を殺されると復讐のタメ徐州の侵攻します。この時劉備は陶謙を助けるために徐州に入っていました。
しかし、曹操が徐州を攻めているときに呂布が兗州に反乱を起こしたために帰還し呂布を撃破しています。呂布は徐州の劉備を頼って落ち延びますが、隙を見て徐州を手に入れてしまいます。
一方、曹操は兗州を取り戻し献帝を手中に収め近辺の張繍を一旦制圧しますがすぐに反乱を起こされ敗れています。しかし、翌年には李確・郭汜を滅ぼし呂布を下邳城で破ると兗州・徐州を手中に収めて周りが敵だらけの状況でありながら徐々に勢力を増していきます。
呂布と同盟を結んでいた袁術は皇帝を僭称(勝手に皇帝を名乗っていた)していたが、曹操が派遣した劉備(呂布に徐州を奪われた後曹操の下にいた)によって追い込まれ最後はなくなってしまいます。
しかし、劉備は袁術を討つとすぐさま曹操を裏切り、徐州を手に入れてしまいますが激怒した曹操によって討たれ袁紹の下に逃亡することになります。
兗州・徐州一帯を支配したことと献帝を手に入れたことで影響力をまし、河北一帯を制圧した袁紹との戦争が不可避の状況になります。
曹操 VS 袁紹
冀州・并州・幽州・青洲を手中におさめる袁紹と兗州・徐州をおさめた曹操は、当時の中国で2大勢力になっていました。
しかし、勢力差は歴然で人馬の数、兵糧、武器などあらゆる面で曹操軍は不利な状況といえます。
しかも、近くの荊州にいる劉表は曹操と仲が悪くたびたび曹操に牙をむいてきていました。
圧倒的に不利な状況ともいえる曹操軍でしたが、袁紹が優柔不断であることなどを理由に開戦を決意します。
部下に曹操との決戦の檄文を書かせた袁紹は後に一大決戦と言われる「官渡の戦い」の望みます。
一大決戦・官渡の戦い
河北から南進してきた袁紹でしたが、曹操軍との緒戦で猛将の顔良・文醜を討ち取られるなど手痛い目にあいましたが、総合力で曹操軍に勝っていたことからじりじり追い詰めます。
曹操軍は官渡に防衛線を敷き袁紹軍を食い止めますが、兵糧の少ない曹操軍は徐々に落ち詰められていきます。
一時は撤退も考えていた曹操ですが、袁紹軍の参謀の一人許攸が袁紹を見限ったことで大きく流れが変わります。
許攸は袁紹軍の兵糧が烏巣というところにため込まれていることを教え、さらには守備が薄いという曹操にとって値千金の情報を提供しました。
すぐさま烏巣に攻撃をかけると兵糧がなくなった袁紹軍はすぐさま本拠地に逃げていきました。
袁家の滅亡と曹操の躍進
官渡の戦いで敗北した袁紹でしたが、まだまだ力はあり曹操もうかつに攻撃できませんでした。
しかし、ここで大きな出来事が起きますそれは袁紹の病死です。
普通であればもともと決められていた後継者が跡を継ぐのですが、袁紹は後継者を選んでおらず長男・袁譚と三男・袁尚が後継者争いを起こしてしまい袁紹軍は内部分裂を起こしてしまいます。
この袁家の内部分裂に便乗して曹操は袁譚・袁尚を滅ぼしましたが、袁紹は異民族の烏桓族のもとに逃げ延びましたがまたまた曹操に滅ぼされてしまいます。
最期は遼東という東の果てにいた公孫康に助けを求めた袁尚でしたが、公孫康は曹操に恐れをなし袁尚を討ち首を曹操に届けます。
これ以降曹操は中原の支配者として君臨し、豊富な兵糧と人馬など他の勢力と比べものにならない軍事力を得ます。
ちなみに袁紹の下にいた劉備は同族である荊州の劉表の下に身を寄せます。