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司馬懿の性格はずる賢くて残忍?曹操・曹丕が恐れたのは才能ゆえか?

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司馬懿の性格はずる賢くて残忍?苛烈で好き嫌いのはっきりしたポーカーフェイス

司馬懿といえば、魏で功績を立て続け、後に成立する西晋の礎を築いた人物、また西晋を興すクーデターを魏に仕掛けた人物として知られていますね。

彼の性格とは、どんなものだったのでしょうか。

司馬懿が世に出るまで

司馬懿は河内郡温県で『世々二千石』と称された代々高官を輩出してきた名門・司馬氏の生まれで、一族の祖は楚漢戦争期の十八王の一人で殷王・司馬仰の子孫にあたります。

司馬懿は司馬防の次男で、ほかに8人の兄弟がいました。

その誰もが聡明で、全員字に『達』がついたことから『司馬八達』と呼ばれていたそうですが、その中でも司馬懿は最も聡明で優れた人物だったそうです。

司馬懿は若いころから才能に溢れ、非常に博識で知られていました。

非常に性格は苛烈でしたが、ポーカーフェイスを貫くことに長けていたようで、内心では激しく怒りを燃やしている最中でも素知らぬ顔で穏やかに振舞うことのできた人物だったそうです。

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曹操に仕えるまでの経緯

201年、司馬懿は河内郡で上計掾に推挙され、彼の才能を聞きつけた曹操に出仕を求められますが、漢王朝の命運が尽きかけていることを知った司馬懿は、病気を理由に出仕を辞退しますが、丞相になった曹操が司馬懿を文学掾に招き、「捕らえてでも連れてくるように」と命じたため、司馬懿も出仕せざるを得なくなりました。

また、ほかの説では曹操のいとこである曹洪に交際を求められた際、訪ねていくのを恥ずかしく思った司馬懿は、仮病を使って杖をついたため、そのことを曹洪から曹操に告げ口されてしまいます。曹操から出仕を求められた際には、杖を投げ捨てて出仕したともいわれています。

曹操とその子・曹丕に仕えてからは、軽挙な行いを慎んでいたため、当初は鋭敏な司馬懿を警戒していた曹操も絶大な信頼を寄せるようになります。

出仕後の司馬懿の功績


司馬懿は出仕後、陽平関の戦いに勝利して関中を手中に収めた曹操に、この勢いのまま劉備が平定して間もない巴蜀を攻めるように進言したり、219年に関羽が荊州から北上して樊城を落とそうとした際、許昌以南で関羽に呼応する者が多く、曹操すらうろたえて遷都の議も持ち上がった中で司馬懿は蒋済とともに遷都に反対し、孫権の勢力を巻き込んで関羽に対抗するという策を出し、見事に成功させたりと、思い切りの良い大胆な策を献上し、それを思いつく激しい性格だったようです。

抜け目のない慧眼

公孫淵を征伐した遼隧の戦いでは、野戦で敗れて籠城した公孫淵の軍が、兵力は多いが食糧が少ない状況であるのを見て、部下に「兵力が多く兵站の確保が難しいときにはある程度犠牲が出ようとも速戦でかたをつけるべきで、逆に兵力が少なく兵站が安定している場合には持久戦を行うのがよい」と説き、実際に公孫淵軍の食糧が底をついたため公孫淵が人質を差し出して和議と助命を嘆願しましたが、

司馬懿は「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。お前達は降伏しようともしなかった。ならば残るは死あるのみ。人質など不要」と拒絶したのち、子の公孫脩とともに包囲を突破して逃げた公孫淵を追撃して二人を斬殺し、公孫淵が治めていた遼東を制圧しました。

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疑り深く抜け目がない司馬懿の所業

それだけでなく、中原の戦乱を逃れた人々が集まって暮らしていた遼東は「いつまた魏への反乱分子の温床になるかわからない」ということで、司馬懿は15歳以上の男子を数千人殺し、その死体で京観を築いたと言われています。

また、独裁を始めて司馬懿と衝突するようになっていた曹爽を打倒したときも、当初曹操の部下・李勝の前で耄碌したように見せかけて油断を誘い、クーデターを成功させて曹爽らを監視下に軟禁したのち「謀反の疑いあり」として一族郎党皆殺しにしてしまいました。

また、司馬懿は死に際に息子らに対して「皆私が謀反すると疑っていたので、私はいつもそのような疑いを持たれないよう注意を払ってきた。私が死んだら、お前達はうまく国を治めるよう慎重に行動するように」という言葉を残しています。

以上のことから、司馬懿は狡猾・苛烈にして目的を完遂するためなら残忍な策を用いることも厭わず、人の好き嫌いもはっきりしていた人物であるといえるかもしれませんね。

曹操・曹丕が恐れたのは才能ゆえか?曹操も警戒した鋭敏な才


司馬懿はその高い才覚を買われ、曹操と曹丕に重用されました。

実際、曹操存命時には、陽平関の戦いの直後や関羽による樊城攻めへの対抗策として非常にすぐれた策を献上し、その能力を高く評価されていました。

その後の蜀との戦いにおいて、当時の皇帝・明帝(曹丕の子・曹叡)の補佐を曹丕の遺言により曹真、曹休、陳羣とともに務めており、「君以外に託せる者はいない」と、明帝から蜀との戦いを委ねられたことで、曹操の時には曹氏と夏侯氏がほぼ独占していた軍事権が名士・司馬氏の手に渡りました。それと同時に、曹氏の君主としての力も徐々に衰退していくことになります。

晋建国の礎を築く

最終的に、司馬氏は蜀に敗れてから独裁を始めた曹爽と一族を打倒し、曹彪を擁立して曹氏の実権を取り戻そうとクーデターを画策した王凌も自殺させ、司馬氏の権力を確立させて西晋の礎を築きます。

しかし、曹操・曹丕は手放しで司馬懿を信用していたわけではなく、曹操は司馬懿のその鋭敏な才と野心を警戒していました。曹操は司馬懿の『狼顧の相』を見て「司馬懿は遠大な志を持っている。誰かに仕えるような男ではない」と見抜いて警戒し、また、司馬懿と親しかった曹丕でさえも「司馬懿は心のうちに大きな野心を秘めている。一介の臣で終わるつもりはないだろう」と評していました。

司馬懿は曹操の予感した通り「才覚に溢れているが誰かに仕える男ではなく、大きな野心を持っていた」人物であったといえそうですね。

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