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荀彧は曹操の覇業を支えた名臣!王佐の才やわが子房といわれた傑物!

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荀彧じゅんいく、字は文若ぶんじゃく

若い頃からその秀でた人格と才能で知られ、「王佐おうさの才」の持ち主であると賞賛されていました。王佐とは「王をたすける」という意味で、徳治を行う君主、トップを補佐する二番手として有能という意味ですね。

他にも戦略の立案や領地の統治、人材の推挙など、多方面に渡って活躍し、曹操そうそうの勢力の躍進に貢献しています。しかし曹操が王位を望むようになってから、漢王室の復興を志していた荀彧との仲違いが発生し、最後は自害に追い込まれてしまいました。

そんな荀彧はどのような人物で、曹操との関係はどうだったのでしょうか。

わが子房

荀彧といえば曹操の軍師として数々の助言、献策を行いました。その主君と仰いだ曹操との出会いですが、流れからいけば袁紹えんしょうに仕えてもおかしくありませんでした。

荀彧は朝廷に仕えた頃、朝廷では暴政を敷いた董卓とうたくが台頭していました。乱の勃発を予想していた荀彧は、故郷の潁川えいせんに帰り、そこでも戦乱の気配を感じると、古老たちに土地を離れるよう呼びかけますが、古老たちは彼を信用せず、動こうとしません。

なので荀彧は避難を呼び掛けていた韓馥かんぷくと一緒に冀州きしゅうに逃れます。荀彧の予想通り、潁川は李傕りかく郭汜かくしの軍勢に蹂躙され、壊滅し、多くの住民が殺害されています。

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本来ならこのまま韓馥の配下になる予定でしたが、韓馥が領有する予定だった冀州は袁紹に握られており、すでに荀彧の兄達は、袁紹に仕えていたので袁紹は荀彧を上客の扱いで優遇しスカウトします。同郷の郭図かくと辛評しんぴょうたちも袁紹に仕えていましたが、荀彧は袁紹は血筋こそよいものの、優柔不断で判断力に乏しく、彼の器では漢の復興を成し遂げられるような人物ではないと見抜き、それに仕える事はありませんでした。

袁紹を見限った荀彧

そして冀州を離れると、奮武将軍の地位にあった曹操の陣営に赴きます。曹操は「我が子房しぼうが来た」と言って荀彧の訪問を喜び、そのまま自分の陣営に加わるようにと要請しました。荀彧も曹操の非凡な才能とカリスマ性に惹きつけられていて、この人物なら漢王室を再興できると確信し、受け入れるのでした。

子房とは、前漢を建国した高祖・劉邦りゅうほうに仕えた張良ちょうりょうのことで、この時代では智謀に優れた人物の代名詞のような存在です。漢の復興を願っていた荀彧、曹操が「子房」という名を出したことで、曹操もそれを叶えてくれると考えていたのかもしれません。しかし、曹操の真意は別のところにあり、これがやがて両者の関係に軋みを発生させていくのでした。

広い人脈を武器に人材発掘にも手腕を発揮

人材コレクターと揶揄され、有能な人材であれば例え親殺しであろうと登用する曹操。そんな曹操配下はスネに傷をもった曲者が多かったのですが、荀彧は珍しく清廉潔白な履歴である人物で、ルックスも中身も立派な正統派です。

荀彧の実績と功績はたくさんあり、陳宮ちんきゅう張邈ちょうばくが離反して呂布りょふを迎え入れた時は即座に対応し、許昌きょしょうを守りきる、献帝けんていの保護をいち早くアドバイスし、それに従い大将軍の地位につき、天下に号令する立場に上る、官渡かんとの戦いでも、荀彧の叱責の手紙で曹操は奇跡の大勝利を起こしています。

それらすべては説明しきれませんので、その中でも優れた人材ネットワークを持っていたことを紹介したいと思います。

荀彧が登用を進めた人物

現代でもどの業界でも人材不足が囁かれ、人材を「人財」と表現することが増えています。もちろん三国志の時代でも人材は大切で、それに貪欲にこだわった曹操はよく理解していたのでしょう。そんな曹操の下で、荀彧は人材紹介にも大変優れた功績を残しています。

トップクラスの名士で広い人脈を持っており、それを武器に人材ネット―ワークの中核にした荀彧。彼が曹操に推挙した人物は、甥の荀攸じゅんゆうをはじめ、戯志才ぎしさい郭嘉かくか鍾繇しょうよう陳羣ちんぐん華歆かきん司馬懿しばい杜襲としゅう杜畿とき辛毘しんぴ王朗おうろう孫資そんし趙儼ちょうげん韋康いこう厳象げんしょう

何と言う錚々たるメンツ。もし彼らが曹操に仕えていなかったとしたら、と考えると荀彧の功績は計り知れませんね。

正史で描かれている程のイケメン

そして荀彧といえばやはり「イケメン」、ということも有名ではないでしょうか。その風采(見た目)の良さは、正史にも描かれている程、正史で容姿についての描写がある人物は少なく、あの美周郎びしゅうろう周瑜しゅうゆにも匹敵するほどの美丈夫だったようです。

後漢きっての毒舌家である狂人、禰衡でいこうも「弔問の使者に丁度良い」と評し、馬鹿にしながらも「顔だけはいい」と認めています。

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荀彧のイケメンエピソード

ある日、枝に頭をぶつけた荀彧、冠がへこんでしまいましたが、気付かずにそのままにしていました。それを見た周りの人々は、荀彧がしているのだから流行っているんだ、と思い、へこんだ冠を真似して本当に流行ってしまったといいます。

他にも東晋時代に書かれた「襄陽記じょうようき」には、劉弘りゅうこうという人物が愛香家として紹介されていますが、彼が友人に「荀令君が訪れると、彼の座った席は三日間その香りが残る」と語った話が載っています。荀令君とはまさに荀彧のことで、このエピソードから後に「令君香」という言葉ができ、転じて高雅な人物の風采を意味するようになりました。

イケメン補正、という言葉がありますが、荀彧はそんな補正がなくとも、名実共にイケメンであったのでしょう。

曹操との関係に入った亀裂

荀彧は曹操が孫権そんけん討伐の軍を起こしている最中に病死しました。亨年50歳、その死には謎が多く、自殺という話もあります。

荀彧が病に伏せっている時に曹操から贈り物が届きますが、それは中身が空っぽであった時がありました。それで全てを悟り自害したのではないかと言われています。

「中身がない」と答えれば「中身をどうしたのだ」と言われ、「中身がある」と答えれば「主をたばかる様な臣などもってのほかだ」と言われる、どちらに転んでも政治家人生が潰えるのです。「用済み」のサインと受け取ったという説もありますね。

あんなに自分に尽くしてくれた荀彧にこんな仕打ちをする曹操の非情さも現していますが、何故二人の関係はこのようになってしまったのでしょうか。それは二人の思想が根本的に違うところにあります。

曹操と荀彧のそれぞれの野望

荀彧の最大の望みは「漢王朝を再興して再び、天下太平の世にする事」なのです。その悲願を成就させるために、それができる、そして「わが子房」と評してくれたことで、それをしてくれると思って仕えたのが曹操。

しかし曹操は自分が王になることに積極的になっていきます。そうすれば魏公となった曹操が、漢王朝を凌ぐ立場になってしまい、荀彧の目的とは異なってしまいます。ですので荀彧は曹操が王になることを断固として反対していたのです。このことが二人の関係に亀裂を生じたと言われています。

荀彧の反対で魏公の位を受けることを延期していた曹操も、荀彧の死の翌年には受け、数年かけて魏王にまで昇りつめます。その後を継いだ曹丕そうひは献帝に譲位を迫って、後漢王朝を滅ぼし、魏を建国するのでした。

後漢王朝が滅ぶのを見なくて済んだのは、荀彧にとっては幸せだったのかもしれませんね。

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