古代中国の名宰相として一番上がるのが桓公を補佐した管仲ではないでしょうか。
諸葛亮も自身を管仲になぞらえたりと後世に大きな影響を与えました。
桓公自身はそこまで名君とされるエピソードは残っていなく、臣下が何か質問すれば管仲に聞けとよく言っていたそうです。
管仲を手に入れるまでは苦労したのだから、管仲を手にした後は楽をしてもいいだろうと桓公は言い放っています。
管仲はこの若干暗愚気味な桓公を当代最強の覇者に押し上げ、覇者の時代という一つの時代を気づきました。
目次
管仲とはどんな人
管仲は春秋時代の斉の宰相です。おそらく春秋時代で最も有名な宰相ではないでしょうか。
管仲が有名になったのはやはり桓公をはじめて覇者に押し上げたからです。
正直、桓公は覇者といえどそこまで名君とはいえないような行動が目立ちます。むしろポンコツというか暗君よりな人物だと思います。
周王室の権威がなくなったことをいいことに封禅の儀を行おうとしたり、管仲がなくなると佞臣ばかりを登用したりするなど覇者のイメージとはかけ離れています。
それでも桓公が覇者になれたのは管仲に全信頼を寄せて国政を任せたためです。
鮑叔との関係
鮑叔も管仲と同じく桓公を補佐した臣下です。
鮑叔は若い頃より管仲と一緒に商売をしたり親交がありました。
管仲が商売で大失敗したときも非難することなく、それだけでなく利益を上げたときでも貧乏な管仲のほうに分け前を多く与えたりと聖人のような振る舞いをしていました。
管仲も鮑叔に対して「私を産んだのは父母だが、もっとも私を知っているのは鮑叔である」と恩義を感じており管仲・鮑叔の仲は生涯続き「管鮑の交わり」として現代まで語られています。
また、鮑叔は管仲の命を救ったこともあります。
斉で後継酢や争いが起こった時、鮑叔は小白(桓公)に管仲は公子叫に仕えていました。小白・公子叫は他国に亡命しており先に斉に帰ったほうが次の君主になることになりました。
管仲は敵である小白を殺そうと弓で暗殺しようとします。みごと矢が小白に当たり葬儀の準備をしているのをみた管仲は公子叫に報告しゆっくりと斉に帰還することにしました。
しかし、実は矢が服の金具に当たり小白は無事でした。小白は演技をして倒れたふりをして葬儀まで用意しました。それから猛スピードで斉にたどり着き桓公となることができました。
桓公となった後、命を狙われた管仲を憎み殺そうとしましたが、鮑叔が天下に覇者ならんとするのなら管仲の力が必要ですと説き伏せて命拾いします。
ここからの桓公がすごいのですが、いきなり管仲を宰相に任命しさらに経済発展のため1年分の税金を自由に使えるようにしました。
暗愚に近い桓公ですが、人の話をよく聞き金払いの良さは漢の太祖・劉邦と似たようなところがあります。
桓公を補佐する
管仲が宰相となり富国強兵に取り組みました。
斉が海に面していることを利用して製塩や漁業を発展させ人民の収入を増やしました。
収入が増えた人民は消費が増え商業も発展することになります。国内が発展した桓公は次に軍事で目立っていきます。
桓公は魯の国を攻め勝利し領土分割の講和を結ぼうとしていた。しかし、魯の将軍曹沫が小刀で桓公を脅し領土の返還を求め桓公はしぶしぶ返還を認めました。
斉に帰国した桓公は
桓公
管仲
また、燕が北方の異民族に襲撃されたときに桓公は救援に向かいました。見事異民族を退治した桓公を燕公を見送りましたが気づかぬうちに燕の国境を越え斉にまで入ってしまいました。
国境を越えていることに気づいた管仲は桓公に駆け寄ります。
管仲
桓公
管仲
桓公
管仲
桓公
管仲の名言
管仲の名言
稀代の名宰相だった管仲は現代でもその言葉が名言として残っています。
今回は後世に残された菅氏の中でもっとも有名な名言を紹介します。
倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る
倉廩とは倉庫のことです。
現代語訳すると
蓄えがあり不安がない時は礼儀と節度をわきまえる。生活に支障があるときは栄誉と汚名を間違えることはない
まず人民の生活を安定してこそ政治が行え富国強兵をすることができると管仲の政治思想がうかがえる言葉です。
他にも管仲は労して功なしのように名言がありますので、気になる方は菅氏を見てみると面白いかと思います。