許褚(きょちょ)の生涯や最期の死因は?馬超も恐れた虎痴の武勇とは?

許褚の生涯は?曹操への忠義に生きた人生

許褚(きょちょ)は、字を仲康といい、曹操に仕えた武将として知られています。
豫州の沛国譙(しょう)県の生まれと言われていますが、生没年について正確なことはわかっていません。

当初、若者や一族数千家を率いて砦を固め、汝南の喝破など賊の侵入を防いでいました。
しかし、数で劣る許褚たちは次第に疲弊し、とうとう武器も尽きてしまいます。

そんなときでも、許褚は最後まで諦めず、城中の人々に命じて枡や茶わんほどの大きさの石を準備させ、それを相手に投げつけて抵抗させました。
そんなとき、呂布と争っていた曹操が賊の討伐のために淮、そして許褚のいた汝に現れます。

曹操が淮と汝の賊を討伐して支配下に収めると、許褚は軍勢を率いて曹操のもとに帰服しました。
曹操は許褚の勇壮な雰囲気に「我が樊噲である」と評し、その日のうちに都尉に任じ、宿衛に入れます。

その後、宛の張繍征伐に際しては先鋒を務め、その功から校尉に昇進します。

戦いでの許褚の活躍


袁紹軍との戦いである『官渡の戦い』にも従軍し、以前からの許褚の部下だった者たちが謀反を企てた際も、許褚が休みの日に行動を起こされたにもかかわらず、胸騒ぎを覚えて宿舎から引き返し、曹操の帳の中にいた部下たちを見て謀反を悟り、彼らを打ち殺して謀反を防ぎます。

この件で、曹操はより許褚に信を置くようになりました。

鄴(ぎょう)の包囲戦にも従軍し、そこでも大きな働きをしたため関内侯に任ぜられました。

韓遂や馬超たち関中軍閥の連合軍と対峙した『潼関の戦い』(211年)では、兵の後に南岸から北岸に向かう際、馬超の軍から矢の雨を浴びせられながら曹操の乗る船を左手に持った鞍で矢の雨から守りながら北岸に向かいます。

そのとき、同行していた兵も船に乗ろうとしたため船が重みに耐えきれず沈みそうになり、許褚は船に乗り込もうとした兵を斬り伏せて船を守りました。その矢で船頭が死ぬと、今度は許褚みずから空いた右手で船を漕ぎ、曹操とともに北岸にたどり着いたのです。

その後、潼関の戦局が膠着状態に陥ると、曹操軍と韓遂・馬超の軍は単騎同士での会談の場を設けますが、その時も曹操は従騎として許褚を供に付けました。
会談の数日後、再び馬超軍と曹操軍が交戦しますが、その時に許褚は自ら敵の首級を挙げ、その武勲から武衛中郎将に昇進します。

また、荊州を攻めていた曹仁が帰還した際、宮殿の外で会った許褚に「中で座って語らおう」と誘いますが、許褚はその誘いを「殿(曹操)がもうすぐ出殿なされるので」と辞したため曹仁を怒らせてしまいます。ある者に「曹仁は王族の重臣である立場にもかかわらず、謙って君をお呼びになったのだ。それなのにどうして断ったのか」と問われ、許褚は「彼は王族といえども外の諸侯です。自分のような内の臣下の末席に座すような人間が、部屋の中でどんなことを話せましょうか」と答えました。それを聞いた曹操はさらに許褚を信愛し、中堅将軍に昇任させました。
それほどまでに曹操に信愛され、また曹操に忠義を尽くした許褚は、曹操が没した際には血を吐いて号泣したと伝えられています。

曹操亡き後も、その子孫に忠誠を尽くす


曹操の死後も、その子である魏の初代皇帝・曹丕、曹丕の息子であり2代皇帝・曹叡にも忠義を尽くしました。
そのため曹丕が即位した後には万歳亭侯に進封され、武衛将軍に転任し、中軍宿衛(近衛兵)を都督する任にも就きます。曹操の側近として仕えた許褚は、曹丕にも側近として信頼されました。

曹丕の没後に即位した曹叡は、更に許褚を牟郷侯に進封し、許褚の第一子も関内侯に封じます。また、許褚の死後、曹叡は彼の忠孝を再び評価し、その子孫2人を関内侯に封じました。
曹操に帰服してからは、生涯曹操の一族に全霊の忠義でもって仕えた武将だったことが窺えますね。

馬超も恐れた虎痴の武勇とは?


許褚といえば、並外れた怪力の持ち主であったことが有名ですね。
身長8尺(約184cm)、腰周りは10囲(120cm)という堂々たる体格に、容貌も雄々しく毅然とし、武勇・力量ともに桁外れであったと言われています。

曹操の軍門に下る前に汝南で賊と対峙していた頃、場内の食糧が尽きかけた際、許褚はある策を考えつきます。賊と和睦するふりをして相手の食糧と許褚の側の牛の交換を持ち掛けたのです。賊が牛を引き取りますが、牛は元いたところに帰ってきてしまいます。そこで許褚はその牛の尻尾を掴んで引きずり、賊のところに返そうとしますが、その怪力に驚いた賊は牛も引き取らないまま逃げ帰ってしまいました。

これだけでも許褚の怪力がよくわかるのですが、それ以降も数々の武勲を立て、のちに馬超もその名を恐れるまでになります。
また、彼は虎のような強さがありながら頭の回転が鈍かった(痴)ため、『虎痴』とあだ名されており、そのあだ名で天下の称賛を浴びるようになった上に名前の読みも近かったため『虎痴』が本名だと思われていたこともあるそうです。

潼関の戦いの最中、曹操軍と韓遂・馬超軍はお互い単騎同士での会談の場を設けました。馬超は己の武を頼りに、その席で曹操を殺そうと考えていました。しかし、馬超も許褚という非常に勇猛で強い武将が曹操の側近に控えていることを知らないわけではなく、曹操の従騎として来ているのがその許褚ではないかと疑います。

そこで馬超が曹操に「公の下には、虎侯と呼ばれる猛者がいると聞いているが」と問うと、曹操は無言で自分の後ろに控えていた人物を指します。そのため許褚が馬超を睨みつけると、馬超は動くことができず、結局曹操を殺せないまま会談の場を後にすることになります。
『虎痴』の武勇は、「韓信・黥布のごとき武勇を持つ」と評される馬超すらも動けなくなるほどのものだったようですね。

許褚の最期の死因は?

その大力と数多くの武勲で有名な許褚ですが、彼の死因は何だったのでしょうか。

陳寿が著した『三国志』の『魏志 二李臧文呂許典二龐閻伝』に彼の伝がありますが、実は最期の死因も正確な没年も記述がありません。
後漢末の黄巾賊との戦いから曹叡の代まで生きたということで、武将の中では非常に長生きで、晩年も戦の中で花々しく散るようなものではなく、穏やかなものだったのかもしれません。

数々の功を立てた勇猛さと忠義の厚さで有名な許褚ですが、その死因も没年も分かっていないというのは、なんとも不思議なものですね。

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