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典韋ってどんな人だったのか?曹操に愛された豪傑!

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典韋ってどんな人?

典韋(てんい)は兗州陳留郡己吾県出身。字、生年ともに不明です。

堂々とした顔立ちと体躯に、八十斤(後漢時代の度量衡換算では1斤がおよそ222.4gとのことで約18kg)という非常に大きな双戟や長刀を振り回し戦場で功を挙げました。
その人柄は忠義に厚く、義侠心に富み、非常に真面目で慎ましいものであったと言われています。

若い頃には仲良しであった「襄邑の劉氏」の仇敵であった李永の屋敷に単身で乗り込み、李永とその妻を躊躇なく切り捨て、さらにその帰路で李永の仲間たちの襲撃を幾度となく受けるのですが、これらを全て切り捨て無事脱出に成功しました。やがてこの一件が世に広まると、

「典韋って豪傑がいるらしいぞ」との情報が拡散され名を馳せました。

一兵卒からスタートしたキャリア、圧倒的な力で出世階段を駆け上がる

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190年に張邈が兗州で義勇兵を募ると典韋はそれに応じ、張邈の配下である趙寵の下で一兵卒としてそのキャリアをスタート。

そこで誰も持ち上げられなかった「牙門の旗」をなんと片手で持ち上げてみせたことで、典韋は一兵卒という身分でありながら趙寵に一目置かれるようになり頭角を現していきます。

『誰にも抜けなかった伝説の剣を……』的なエピソードでしょうか(笑)。

とにもかくにも、いかに典韋の腕力が並外れていたかを表すエピソードですよね。やがて曹操軍に降ってからは夏侯惇の配下となり各地を転戦、戦果を挙げて司馬の地位に就きました。

曹操の信頼を勝ち得て、最強のボディガードに

ある時呂布との戦でピンチに追い込まれてしまった曹操ですが、ここで曹操を守るために自ら進んで囮役を引き受け、死地へと飛び込んだのが典韋でした。

数十人の決死隊を率いて出陣した典韋は矢の雨が降る中多勢の呂布軍を相手に奮戦、じゅうぶんに時間を稼いだことで曹操を無事に退却させます。

この功績が大いに評価された典韋はその後都尉を任され、曹操の身辺警護を任されるようになりました。

平時においては常に自らの傍らに置き、戦時には常に先鋒を任されるという圧倒的な信頼を寄せられた典韋。彼の凄まじい武力と、圧倒的な胆力を曹操がいかに愛していたかがわかりますね。

安心の24時間体制!最強の番人・典韋

ここでご紹介したいのが典韋の真面目過ぎる(笑)とも思えるボディーガードっぷりについて。

「昼は常に主君の傍ら、夜も主君の帳のすぐ側にて寝泊りし、自分の家にはほとんど帰らなかった」ということです。中にはトイレすら簡易トイレのようなものを部下に持って来させ、自らの持ち場で用を足したというような描かれ方をしていることもあります。

「三国志」の中には主君のボディガードとして、曹操の2代目ボディーガードを務める「許チョ」、他にも劉備に対しての「張飛」や孫権に対しての「周泰」などが挙げられますが、ここまで徹底した警護の様子が記述されているのは典韋だけです。

土日もなしで自宅にもほぼ帰らずに自らの任務に没頭した典韋。その真面目(過ぎる?)な性格がよくわかるエピソードですね。

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壮絶すぎる最期、最後まで主君曹操のために


197年、張繍を降伏させた曹操は典韋も従え張繍の居城である宛に入ります。そこでは盛大な宴会が開かれますが、その最中典韋は終始曹操の傍らに巨大な斧を携えて睨みを利かせて張繍たちをけん制。

張繍陣営の者は皆ビビッてしまい、宴会が終わるまで誰一人として顔を上げることができなかったといいます。その夜張繍の裏切りにあい屋敷を襲撃され敵軍に周りを囲まれてしまった曹操は退却を決断。典韋以下十数名に敵の足止めを任せている隙に自らは屋敷を抜け出しました。

そこでの典韋の戦いぶりは鬼神の如きの凄まじさで、味方が次々と討ち取られていく中、彼自身も体に無数の傷を負いながら迫りくる敵軍を次から次へと蹴散らしていったといいます。しかしやがて力尽き敵に致命傷を受けると大声を出して敵軍を一喝、そのまま絶命したというのが彼の最期でした。

その後敵軍の兵士たちはみな恐れながらも「ここまで自分たちを追い込んだ典韋という男を一目見ておきたい」と近づいて彼の亡骸を見物したというのですから、彼の死に様はいかに凄まじかったことでしょう。

息子の死よりも曹操を悲しませた、典韋の死

実はこの宛城の戦いにおいて、曹操は典韋とともに自らの実の息子である曹昂も失っています。

しかし曹操にとっては実の息子の死よりもよほど典韋の死が堪えたようで涙を流しその死を悼んだと言われています。その後「魏」という三国の中でも最大の国の礎を築いていく曹操、この時代のスーパースターが典韋が戦死した場所を通るたびに弔っていたというのですから、曹操がいかに典韋を愛していたかがわかりますね。

曹操は典韋の恩義に報いるために息子の「典満」を厚遇し、自らの側に置いたといいます。

典韋のあだ名「悪来」その由来って?

『三国演義』にて典韋は曹操から「悪来」というあだ名で呼ばれています。その元ネタは三国時代よりも前、殷の時代の紂王に仕えていた嬴来という名の官僚です。

その人物は怪力の持ち主で、とにかく人を騙すことに長けていたとのことで他の諸侯から「悪来」と影口を叩かれていたようです。典韋と嬴来はどちらも怪力という共通点こそありますが、性格的には全くの逆ですよね。

そんないわくつきともいえるあだ名ですが、典韋自身はかなり気に入っていたようです。それはおそらく典韋と曹操の関係性がそれだけ豊かであったという証明というように考えられるのではないでしょうか。

みなさんも稀に親しい間柄同士で「からかい半分、愛情半分」おかしなあだ名で呼び合ったりはしませんか?筆者は曹操と典韋が強い信頼関係で結ばれていたからこそ「悪来」と呼び、呼ばれるようになったのだと思うのです。

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