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夏侯惇の強さはどのくらいホントは弱かった?妻や墓の場所はドコなのか

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魏の将軍として早々の旗揚げ時から付き従っていた夏侯惇。

三國無双などのゲームでは必ずと行っていいほど登場しているので
知名度が非常に高い武将です。

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さらに隻眼という三国志で唯一無二のキャラクターなのも人気に拍車をかけていますね。

「蒼天航路」という漫画でも主人公である曹操の相談役みたいに登場していました。

曹操の親戚には曹仁や夏侯淵など数多くの名称がいますが、その中でも夏侯惇の
扱いは頭一つ抜けていると言ってもいいでしょう。

呂布・袁紹・馬超・関羽に真っ向から対峙して譲らなかった曹仁

賊討伐や羌族など異民族を震え上がれせた夏侯淵

などなど曹操の数多くのチート武将たちを抑えて
武官の最高峰・大将軍に任じられています。

一体夏侯惇はどれくらいの武功を立てたのでしょうか今回調べてみました。

将軍としての夏侯惇

旗揚げ直後の曹操軍は無名な義勇軍のような存在でしたが、
将軍たちを見てみると、

曹仁、夏侯淵、曹純、曹洪と後の時代から考えるととんでもないようなメンツ
が揃っていました。

夏侯惇と夏侯淵の関係は親戚それとも兄弟か?どっちが強いのか比較してみた!

その後の曹操軍が董卓軍と戦う頃に夏侯惇は曹操軍の司馬を任せられています。

補足説明
司馬は軍内の規律を監督する役職でいわば憲兵隊長のようなもの

ここでの夏侯惇は前線に立って指揮を取るようなことはなかったのだと思います。

曹操が陶謙の徐州を攻めているときに呂布に攻め込まれたことがあります。

その時濮陽にいた夏侯惇はすぐさま駆けつけますがなんとこのとき呂布に捕まってしまいます

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このとき夏侯惇の部下であった韓浩によって救出されていますが、
もしこのとき処刑されていたら夏侯惇の名前は歴史に残っていなかったかもしれません。

ちなみにこのあとも夏侯惇は高順と張遼に敗北しています。

夏侯惇 VS 劉備

劉備が劉表の食客だったとき、曹操は河北にいる袁紹を攻めますが、
これを好機とみた劉表は劉備に曹操領を攻めるように命じます。

このとき荊州方面を守っていたのは夏侯惇と于禁、李典でした。
劉備に呼応するように出撃する夏侯惇を李典がなだめます

「伏兵がいるかも知れないので深追いはいけません」

しかし、夏侯惇はこの忠告を無視して劉備軍に突っ込んでいきますが、
李典の予想はあたってしまい大敗を喫してしまいます。

ちなみにこのときの夏侯惇軍は10万、劉備軍は1万未満と言われています。

いくら曹操軍でも袁紹と戦いの最中に10万の軍勢を駐屯している事は考えられませんが、
それでも数倍の戦力差があったと思われます。

呉の守りについた夏侯惇

曹操が魏と呉の国境付近の濡須口で攻め入ろうとしましたが、大敗を喫してしまいます。

曹操は都に撤退しますがその際に呉に対するまもりとして夏侯惇を総司令に任命しています。

このときは以下には名将として名高い張遼や臧覇(ぞうは)がいましたが、
孫権がここを突破することはありませんでした。

このとき夏侯惇が与えられた軍は二十六軍という大兵力でした。

これは曹操が夏侯惇を心底信頼している証拠と言えるでしょう。

このときの夏侯惇の立場は総司令ということで、軍を率いて
前線に立つような役職ではありません。

張遼や臧覇たちのような将軍を率いるような役目です。

夏侯惇は前線で活躍するようなタイプではなかったようですが、
将軍たちをまとめるような役目にはピッタリだったようです。

人を見る目が確かな曹操はこのことを熟知していて、
将軍たちのまとめ役に抜擢したのでしょう。

夏侯惇の妻

夏侯惇は4人の男子に恵まれています。

歴史書には女子の名前が出ることはほとんどないので、実際にはもっといたかもしれません。

さて夏侯惇の奥さんですが陳寿の「正史三国志」にも物語である羅貫中の「三国志演義」にも
記述がありません。

というのもこの時代の武将の妻が出ることなんてほとんどないのです。

妻として出ているのは曹操の卞夫人とか劉備の糜夫人といった超有名どころです。

しかもこの二人は後の皇帝になる曹丕や劉禅を生んでいるのも大きな部分です。

したがって夏侯惇の夫人が歴史書に書かれていないのも不思議ではないんです。

夏侯惇の墓の場所

少し前に曹操の墓が発見されて話題になっていましたが、
夏侯惇の墓も発見されています。

夏侯惇の墓の場所は河南省許昌県です。
三国志に詳しく人ならピンとくるかと思いますが、三国志時代の許都があった場所です。

しかし、残念なことに現在では夏侯惇の墓は見れなくなっています。

というのも、すでに工事でお墓はなくなっているんです。
お墓が取り壊される前に調査はされていて、そこから出てきた埋蔵品は

金銀などの財宝の類は一切なく、あるのは一振りの剣だけでした。

夏侯惇は生前からお金を周囲の人に分け与えていて、いわば清貧の暮らしをしていたそうなので
財産を残していなかったのも不思議ではありません。

みんなの意見

ハラ

曹操の側近中の側近という印象の強い夏侯惇。ゲームなどでは眼帯をした顔が印象的です。武勇に優れた武将という印象が強く、呂布討伐戦のときに敵将が射た矢が自分の目に当たったところ、目玉ごと矢を抜き、「親からもらった体だから、捨てることなどできない」といって目玉を食べたという三国志演義の記述が彼の人となりを表しているのではないでしょうか。三国志演義などの内容では猪突猛進で若干智謀にかける武将という印象のつよい夏侯惇ですが、曹操の旗揚げからもっとも長く曹操を支えた武将でもありました。無事惟名馬ではありませんが、曹操には一番頼りになる存在だったのではないでしょうか。
夏侯惇のイメージは弟の夏侯淵、曹仁、曹洪らとともに主君である早々に忠義を誓った魏国を代表するイメージが強く、西涼の暴君董卓の配下呂布の戦の際に負傷してしまった左目を抜き取り、親からもらったものだといい食し、そして隻眼の猛将として活躍するイメージが非常に強いです。また、魏の王こと曹操は非常に知的であり武術も備えている知勇兼備の将軍でありながらも、非常に傲慢で非尋常的な行動こそある面倒な性格であったものの、夏侯惇はその曹操の命を最後まで従い、曹操が病でなくなった後も後を追うかのように病に倒れたという勇将ともいえます。

タイポン

サクラ

夏侯惇は曹操に忠誠を尽くし、長年その身辺を守って馬上の槍で大活躍した猛将で、コーエイのゲーム三国志2では武力93(かなり高い・使える)だったかな・・・と遠い昔なのにそのようなイメージがまだあります。「じゅん」と読むか「とん」と読むか三国志ファンの間では論争がありますが、それは日本語読みの問題でどちらでもよく、知らないながら中国発音は一つなのでは・・・とは思います。目に矢が刺さってくり抜いて食べ、中国の儒教で言われる「身体髪膚これを父母に受く,あえて毀傷せざるは孝の始なり」など真の武将にとってはクソ食らえだ、と豪語したというような逸話があり、何しろすごい迫力です。食べた云々については三国志演義の捏造の可能性はありますが、それぐらい激しい人物だった、ということでしょう。
夏侯惇といえば戦いの最中に矢が左目に当たった影響で左目を失い眼帯をした顔がトレードマークになっている古くから曹操に仕えている一本気気質の武将のイメージが強い印象だが、実際は頭も良く智略も駆使して数々の武功を立てるなど軍事能力も優れていて難しい性格の曹操からの信頼も厚かった武将の一人です。そして普段の生活も私欲に溺れず質素剛健に振る舞っていたようで困窮している状況の民には自分の金品を使って施しを行ったエピソードもあるくらい情も厚く政治力も高かった人物だと思います。

イズタ

タピユ

横山三国志からのイメージにはなりますが、夏侯惇は優秀な武将というイメージがある一方で、猪突猛進な一面もあり計略には引っかかりやすいというイメージもあります。

ただ曹操にはとても信頼の厚い武将で、つねに最前線で戦っていてのちの魏になる領土の拡大にとても貢献していた武将になります。

また、計略には乗せられた一面があると先ほど書きましたが、少しの計略ぐらいであればそれを逆にはねのけて敵をけちらしてしまうぐらいの勇猛さを持った、魏の中でも一二を争うほど優秀な武将であったかと推測できます。

夏侯惇のイメージというと、男気が強く、頑固、攻撃的と男らしさ全開のイメージがあります。そして、トレードマークになっているような、隻眼。他説様々あるようですが、なくした片目についての話ですが、戦闘中に矢が刺さり、親にもらった体の一部を捨てることはできん、と食べてしまうほどの豪傑。これほどの精神力の持ち主ですので、さぞ上司になってくれたら、頼りがいのある人になってくれるに間違いありません。ただし、体育会系のノリになりそうなのは否定できないですが。

クロムジン

カラニナ

夏侯惇は曹操の右腕的存在で、気性が荒く激しやすいという印象があります。また、言葉は悪いですが、苦労人であり曹操の後始末係りというイメージも持っています。特に袁術との戦いで太寿の水路を決壊させた時に、夏候惇自身が土木作業に取り組み堤防を築き上げ、太寿水をせき止めているエピソードにその部分を感じます。

他には有能な人物を見抜ける目を持っていると思います。特に韓浩や典韋を部下に迎えたあたり、本当によく人を見ているなと感心してしまいます。

夏侯惇は曹操の右腕と思っています。ちょっと血気盛んな性格で一直線な感じがしてしまいます。でも、曹操からの信頼は厚くて素晴らしいです。曹操とは従兄弟だからだと思います。呂布や、関羽とも、戦い武力は強くてかなりの戦闘にもでているがなんとか生きていることから運もあると思います。そして、お金や、名誉、地位にはあまり興味がなくて、お金があると貧しい人達に分け与えているし、かなりいい人だと思います。学問も、熱心に学んでいました。

ラスイナ

所沢

夏侯惇は曹操に使えし隻眼の勇姿として知られている人物です。忠誠心が強く、武力に猛る武士だと想います。片目に刺さった矢を片目ごとくり抜き、それを食してみせたという逸話があります。こんなことがあれば、ショック死してしまう人もいると考えられる中、戦意を失わずにピンチを受け入れて乗り越えたという行動力と男気には、時を越えてもなお憧れをいだきます。

私にとっては実在したかどうかも分からぬ偉人ですが、勇猛で格好よい武人としか思えません。

人物としては警告に従わすに敵を深追いして、敵方の策略にはまってしまい、戦いで多くの仲間を失うなどの軽率な面があります。しかし、一方で武人らしく戦うという勇ましい面もあります。一騎打ちで戦い、高順を追いやったり、自らの左目を射った相手をそのまま討ち取ったり、ということは優れた武人でないとできません。最後は、武人らしく戦いで命を落とす訳ではありませんが、夏侯惇という人物をよく表した最後だ、と思います。

ヴァーム

まとめ

旗揚げ時の曹操軍で夏侯惇は司馬についていた

夏侯惇は呂布軍に捕まったことがある

兵力差が圧倒的だった劉備に大敗した

呉方面の守備で武将たちを統括する総司令を務めた

夏侯惇の男子は歴史書に記されているが妻についての記述はない

夏侯惇の墓は河南省許昌県にあった

現在お墓はなくなっていて埋葬品も一振りの剣しかなかった

夏侯惇は同じく旗揚げ時から曹操に従っていた夏侯淵や曹仁とはちがい、
軍勢を上げて武功を立てることはほとんどありませんでした。

しかし、補給路を確保したり曹操の留守を守るなど重要な役割を担ってきました。
さらには曹操と同じ馬車に乗ることや寝室への立ち入りを許されたりと格段の厚遇を受けています。

曹操が魏王になったあとも、曹操は夏侯惇には魏の官職を与えようとはせず
あくまでも同等の立場でいることにこだわっていました。

曹操の墓も夏侯惇と同じように埋蔵品が質素だったことも、この二人は
非常にウマがあったのではないでしょうか。
(逆に曹洪はお金への執着心が強く曹操以上に財産があったと言われています)

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