三国志と名がつく本やゲームに必ずと言っていいほど登場する人物
夏侯惇(かこうとん・かこうじゅん)と夏侯淵(かこうえん)の二人の武将がいます。
どちらも曹操がまだ挙兵する前からの関係で、挙兵時には付き従っています。
夏侯惇と夏侯淵はどちらも夏侯性をもつことから少なくとも、親戚関係にはあるようです。
しかし実際にはどういう関係だったかは本やゲームではあまり明かされていないようです。
そして、どちらが武将として強かったのか優れていたのかも気になるところです・
今回は、夏侯惇と夏侯淵の関係とどちらが強かったのかを調査していきます。
目次
夏侯惇と夏侯淵の関係
夏侯惇と夏侯淵の関係については陳寿が書いた「三国志」と羅貫中が書いた「三国志演義」で記述が違います。
演義とは史実をわかりやすく面白く書いたもので、創作要素も盛り込まれています。
三国志演義の他には古代王朝の興亡を描いた封神演義が日本でも有名ですね。
逆に陳寿が書いた「三国志」は正史三国志とも呼ばれています。
正史とは時の王朝が認めた正式な歴史書で、陳寿も時の王朝である普に認められて正史となっています。
正史と演義細かな違いはありますが、
「正史は歴史書、演義は物語」
とざっくり覚えてもらえばよいです。
それでは、陳寿の正史「三国志」と羅貫中の「三国志演義」それぞれの夏侯惇と夏侯淵の関係を追っていきましょう。
三国志演義での関係
羅貫中が書いた「三国志演義」では夏侯惇と夏侯淵の関係は「兄弟」として書かれています。
夏侯惇が兄、夏侯淵が弟です。
コーエーテクモの三国志を題材にしたゲーム「三國無双シリーズ」で
夏侯淵が夏侯惇のことを「惇兄ィ」と呼ぶ場面がありますが
これは夏侯惇と夏侯淵が兄弟関係であることからでしょう。
また、夏侯惇が弓矢で片目を射抜かれたときに助けに駆けつけたのも夏侯淵でした。
三国志演義では夏侯惇と夏侯淵は兄弟関係ということもあり密接な信頼関係を築いているようです。
正史・三国志での関係
陳寿が書いた「三国志」の夏侯淵伝では以下の文章があります。
”夏侯淵は字(あざな)を妙才といい、夏侯惇の族弟(いとこ)であった”
夏侯惇と夏侯淵の生年は明らかになっていませんが、夏侯淵のほうが年下だったようですね。
ただ三国志では二人が仲が良かったような記述が一切なく、詳細な関係はわかりません。
しかし、不仲とも書かれておらず親戚関係だったので仲は良好だったことでしょう。
若い頃から曹操に付き従ってきた両者が仲が悪かったというのは
想像できません。
特に挙兵すぐの曹操軍は董卓軍に壊滅寸前に追い込まれたりと苦楽をともにした存在の両者ですから、仲は良好だったのでしょう。
陳寿の「三国志」はあくまでも歴史書で陳寿自身は夏侯惇にも夏侯淵ともあってことがないので、仲が良かったとはかけなかったことでしょう。
夏侯惇と夏侯淵はどちらが強いのか
ここでは陳寿の「三国志」から考えてどちらが強いのか考えていきます。
結論から言いますと強いのは間違いなく夏侯淵です。
今では多くの三国志をモチーフにしたゲームが出ていて、その中でも夏侯惇は強キャラとして登場する事が多いように感じます。
ゲームの能力値も見ると夏侯淵より夏侯惇のステータスが高くなっていて、あまり三国志に馴染みのない方が
「夏侯淵より夏侯惇のほうが優秀」
と思うのも無理はないかなと思います。
しかし、実際には兵を率いて武功を上げるようなシーンはほとんどなく、夏侯惇が活躍したのは内政面や将軍たちを統括する総司令官といった役職のときです。
意外と戦が下手だった夏侯惇
まだ曹操が中原での一勢力に過ぎなかった頃、曹操自ら徐州の陶謙を攻めていました。
曹操がいないことをいいことにこのとき呂布が兗州で旗揚げして、なおかつ曹操の妻子を捉える暴挙に出ました。
このとき兗州にいたのは夏侯惇と荀彧だけで、このとき夏侯惇は曹操の妻子を助けるため出陣しますが逆に捕らえられています。
このときは部下の働きでなんとか命は助かっています。
その後も当時は呂布配下だった高順と張遼に敗北しています。
呂布・高順・張遼と歴戦の猛将なので夏侯惇が負けるのも仕方がないかなと思いますが、この後にも戦が得意とは言えない劉備にも敗北していることから夏侯惇自体あまり兵を率いて戦うのは得意ではなさそうです。
一方で曹操からの信頼はかなり厚く孫権率いる呉方面の総司令官となっており、このとき夏侯惇が率いていた軍勢は10万人以上と曹操以外でこれだけの人数を率いた将はいません。
その他にも曹操の寝室への出入りや馬車への同乗も許されていたりと格別の高待遇を受けています。
曹操の身内で最も戦上手と思われる曹仁でさえこのような待遇は与えられていないことから、曹操が最も信頼していたのは夏侯惇だったのでしょう。
勢いに乗ったら誰に求められない夏侯淵
夏侯惇が内政や将軍たちを統括することを得意としていましたが、夏侯淵は武将として軍の先頭に立ち数々の武功を挙げることを得意としていました。
あまり曹操に付き従って戦うことは初期以外はなく、賊徒討伐や異民族討伐に赴いていました。
魏の名将・于禁が手こずっていた昌豨を討伐したり、曹操領内で起きた黄巾賊討伐等が挙げられますね。
特に夏侯淵の目覚ましい活躍は涼州での反乱とその付近の異民族である氐族(ていぞく)や羌族(きょうぞく)の討伐でしょう。
涼州で反乱を起こした馬超・韓遂らの勢力を夏侯淵が壊滅させた後も、宋建という人物が河首平漢王を名乗り反乱を起こした。
曹操から宋建の討伐を命じられるとわずか1ヶ月で討ち取ったといいます。
夏侯淵の強さは速さによるところが大きいです。
その後も氐族・羌族をことごとく撃破し夏侯淵の名はこの部族からたいそう恐れられたそうです。
曹操が羌族との交渉が難航すると夏侯淵の名前を使って脅した話が残っているぐらい夏侯淵は恐れられていました。
みんなの意見
トン
ハリ
ニムズ
兄の夏侯惇は主への忠誠心が厚く、冷静沈着にして勇猛な武将として認知しています。強大な腕力を有し、大きな一本刀を振る猛将だと聞いています。
夏侯淵は、接近戦を得意とする兄と違い、扱いの得意な武器が弓でした。大柄で縦より横が大きい人物像を思い描きますが、それでも慎重性と器用さが必要な弓という武器を得意とする点は個人的には意外だと想いました。弓の腕前は蜀軍の猛将黄忠に匹敵する腕だったそうです。
所沢
バーム
シーワ
ネコノ
夏侯淵は、弓術に長けていたといわれる剛勇で、急襲戦を得意としていたようです。異民族の反乱や羌族の討伐など曹操勢力下の治安維持に貢献すなど多くの功績を残しました。
イクハ
一美
夏侯淵は弓術に長けており、余興で的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露しています。
一方、夏侯惇は一騎打ちを得意とするエピソードが多く残っています。
董卓配下の徐栄を討ち取り、呂布配下の高順を降したりと、名だたる猛将との一騎打ちにて数多くの勝利を得て、曹操軍の勝利に貢献しています。
曹操のいとこ。碧眼が特徴。字は元譲(げんじょう)。
曹操に最も信頼されていた男で、呂布との戦いで矢を受けて左目を失った。三国志演義によると、このとき夏侯惇は矢を眼球もろとも引き抜き、「親から貰ったこの体、棄てる事など出来ようか!」と叫んで飲み込んでしまったという。
夏侯淵(かこうえん)
夏侯惇のいとこ。夏侯惇よりも年下。字は妙才(みょうさい)。
迅速な行軍と奇襲攻撃を得意とした名将。馬超を撃ち破り、涼州を平定した。曹操は羌族と交渉する際、夏侯淵の名前を出して脅したという。
三国志演義では夏侯惇の実の弟になっていて、弓の名手。定軍山の戦いで黄忠の奇襲を受けて戦死した。
ナオ
キリ
まとめ
・正史・三国志では族弟(いとこ)
・夏侯惇より夏侯淵が年下
・武将として強いのは夏侯淵
・内政や司令官として優秀なのは夏侯惇
・夏侯惇は戦では負けてばかりだった
・夏侯惇は曹操からの信頼が最も厚い将軍
・夏侯淵は賊討伐で数々の武功を上げている
三国志を知ったばかりの方には夏侯惇が実は戦が下手だったのは、いささか衝撃だったかもしれません。
しかし夏侯惇は曹操軍になくてはならなかった人物にほかなりません。
夏侯淵もまた曹操が信頼する人物の1人で内地の族討伐や異民族相手に多くの武功を上げています。
どちらも曹操率いる本隊とは別に行動することが多く多忙な曹操を助けていたようです。
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