始皇帝の周りで一番有名なのが父・子楚の寵姫でもあった太后でしょう。
太后は呂不韋と密通しその後嫪毐と結び秦に反旗を翻しました。
この反乱は鎮圧されましたが、実母からの反乱に始皇帝は大いに傷ついたことでしょう。
一方、始皇帝自身の妻である妃は歴史上明るみになっていません。
これは歴史上異例ななことで特に跡を継いだ胡亥の生母でさえわかっていないのは異常といえます。
目次
始皇帝の妻はどんな人?
始皇帝の妻の名前はわかっていません。
これは歴史的にみて異例なことで、漢の始祖・劉邦は庶民出身であったにもかかわらず生母・妻の名前ははっきりとわかっています。
王族であった始皇帝の妻の名前がわかっていないはずがなくこれは、意図的に消されたのではないかと思います。
始皇帝の子供として有名なのは扶蘇と胡亥です。
このうち扶蘇は趙高の謀略で自害させられてしまいますが、始皇帝の後継者として最有力の人物でした。
この扶蘇の生母が始皇帝の妻つまり第一夫人で皇后だった可能性が一番高いと思われます。
しかし、この扶蘇の生母ですが、これからの趙高の行動を考えると抹殺されたのかもしれません。
始皇帝の妻は楚の出身?
始皇帝の妻で最有力なのは楚の出身といわれています。
その理由は始皇帝が即位してからの側近が楚出身が多いことです。
当時の丞相であった昌平君・昌文君はともに楚の王族の末裔です。
大臣の最高位が二人とも他国出身という現代ではあまり考えられないようなことですが、当時では割と普通にありました。
当時秦の中枢を楚出身者が付いていたのかを考えると、始皇帝の夫人のバックアップがあったからだとされています。
なぜ始皇帝の妻の名前が残っていないのか?
始皇帝の妻の名前が残っていないのはあまりにも不自然です。
特に後継者である胡亥の名前が残っていないのが不思議でなりません。
考えられるのが、始皇帝が意図的に名前を残さないようにしたということです。
始皇帝の妻が楚出身者である可能性が高いことは説明しましたが、楚出身の昌平君が反乱を起こしたことがきっかけかもしれません。
始皇帝の妻は昌平君とかなり近い存在だったのかもしれません。
昌平君も楚の王族であり、妻も楚の王族であるとすれば何らかの罪に問われ幽閉されたのかもしれません。
そのため名前が意図的に消されととも考えられます。
それでなくとも始皇帝は妃というものに苦い経験があります。
生母である太后に裏切られた経験から、歴史の表舞台に妻を登場させないようにしたといえるかもしれません。
それに、趙の滅亡の原因にも王の妃が勝手に次の国王を決め滅亡を導いたという話もあります。
始皇帝の後宮にいた側室の数
始皇帝の后が不明だからと言って女性を避けていたわけではありません。
むしろ数多くの側室がいたようです。
それが分かったのは始皇帝が死亡したときに、後宮で子供のいない側室はすべて始皇帝のために殉死させられたとされます。
その数ははなはだ多かったと書かれているので10人程度じゃ聞かないことでしょう。
子供の数は20人以上いたとされるので、少なくとも30人以上いたと思います。
後の皇帝たちが何百人もの側室を抱えていたと考えると、始皇帝も同じく100人以上の側室がいたと思われます。
始皇帝に子孫や末裔
始皇帝の後継者である胡亥ですが、彼もまた趙高に殺されてしまいました。
趙高は天下が乱れた責任を胡亥に押し付け責任を逃れようとしましたが、後継者に立てた子嬰によって殺されてしまいます。
その後、子嬰は劉邦に降伏しますが、あとからやってきた項羽によって殺されてしまいここで始皇帝の直系の子孫は断絶されます。
項羽は子嬰の一族郎党を根絶やしにしたので始皇帝の子孫は残っていないのが一般論です。
しかし、極秘に始皇帝の子孫が日本にわたり秦氏として日本で豪族となったという説もあります。