劉禅と星彩の夫婦仲は悪かった?魏に降伏した後の生活はどんなだった?

 しょくの二代目皇帝にして最後の皇帝である劉禅りゅうぜん。中国では「最も人気のない皇帝は誰か?」という議論に必ず名前が挙がるほど人気がないそうです。確かに蜀は三国演義においては主人公である劉備りゅうびが興した国で、その国をたったの一代で滅亡させてしまったわけですから人気がないのも頷けます。

 さて、この記事ではそんな劉禅の夫婦仲、そして彼が魏に降伏した後どのような生活を送っていたのかについてご紹介していきたいと思います。

劉禅と【星彩せいさい


 早速ですが、ゲームなどでよく見聞きする【星彩】という人物について。劉禅の妻として紹介されていたりもしますが、実際に星彩という名前の人物は存在しません。

しかしモデルとなった人物はいます。それは劉備の義弟である張飛ちょうひの娘です。「張飛の娘=星彩」であれば説明は簡単なのですが、簡単にイコールできない事情があるのです。

実は張飛の娘は二人いて、そのどちらも劉禅の妻となっているということは皆さんご存じでしたでしょうか? 

星彩のモデルとなった二人

 一人は【敬哀皇后けいあいこうごう】、もう一人は【張皇后ちょうこうごう】と記録されています。

二人とも父は張飛、母は夏侯淵かこうえん従妹いとこという、まさに三国時代のサラブレッドですね。

二人の【星彩】の経歴

 さて、この二人の皇后については詳しい記述は残っておりません。二人の記録をご紹介しましょう。
①敬愛皇后
 221年、劉備が皇帝に即位すると太子・劉禅の妃として宮中入り。
 223年、劉禅が皇帝に即位に伴い皇后になる。
 237年、死去。生年の記録がないため享年不明。
②張皇后
 237年、姉の敬愛皇后が亡くなると宮中に入って貴人に立てられる。
 238年、皇后となる。
 263年、蜀が滅亡し、劉禅は洛陽らくようへと移送されることになり、それに随行する。

以上の記録しか残っておりません。「絶世の美女であった」との言い伝えもあるそうですが、性格なども含めその真相を知ることはできません。【星彩】として今日の私たちが認識している女性像はおそらく「あの張飛の娘だったらこういう性格の子だったのかな?」という後世の人たちの想像によって生まれたのかもしれません。

劉禅と二人の【星彩】の夫婦仲はどうだった?

 夫婦仲に関しての記述も特には残っていません。ただ、劉禅の長男である劉璿りゅうせんという人物の母親は敬哀皇后の侍女であった王貴人おうきじんという人物なのです。

他にも劉禅の息子や娘は数人いるようですが、多くは250年以降の生まれです。ということは237年に亡くなっている敬愛皇后は彼らの母親ではありませんし、妹の張皇后についても年齢的に出産は厳しいかなという推測ができますので(当時は今ほど医療が発達しているわけではないので高齢出産のリスクが現代よりも高いだろうと推測されるため)、彼らの母親はすべて【星彩】以外の女性である可能性が高いのではないかと考えられます。

 劉禅と二人の【星彩】の間に子どもは一人もいないと考えて間違いなさそうですが、夫婦仲が悪かったから子どもがいなかったと結論付けることも難しいです。最初の皇后である敬愛皇后は生年こそ不明ですが、彼女の両親の出会いは200年以降ですので、それを考えると少なくとも40歳前には亡くなっているわけです。

そこからおそらく彼女は体が弱かったのではないかと想像できますね。張皇后については、妃になった時点で当時としては割と高齢だったでしょうから、高齢出産というリスクを避けただけ……という考え方もできますね。

 愛し合っていなかったから子どもができなかったという考え方も、逆に愛し合っていたからこそ劉禅が皇后を思いやって子どもを望まなかったという考え方もできます。実際の彼らの夫婦仲はどうだったのでしょうか。真相は闇の中です。

魏に降伏後の劉禅の生活


 上でも少し触れましたが263年に蜀が魏に降伏して滅亡すると、劉禅は魏の首都である洛陽に移送されます。

そこで所謂軟禁生活を強いられることになります。軟禁生活とはいってもある程度贅沢の許された生活だったようで、劉禅本人はとても楽しんでいたという記録が残っています。

劉禅「蜀? ぜ~んぜん懐かしくもないっすよ(笑)」

 ある時、酒宴の席で蜀の音楽が流れたのですが、劉禅に従って洛陽に移ってきた蜀の元臣下たちが皆涙している中で劉禅だけは笑っていたのだそうです。

そこで当時の魏の実質上の最高指導者であった司馬昭が「蜀が懐かしくなりますか?」と尋ねたところ劉禅は「いや~! 全然懐かしくありません! ここでの生活が楽しくて蜀のことはすっかり忘れてしまいましたよ!」と笑顔で答えたそうです。

 それを聞いていた劉禅の配下である郤正げきせいが劉禅に「そんなふうに答えたらダメですよ」とたしなめたと言います。

もしまた同じような質問をされたときには「ご先祖様のお墓はすべて蜀にあるのです。一日たりとて我が故郷のことを思わない日はありません」と答えるよう劉禅に教えました。

 後日、司馬昭は「やはり蜀が懐かしくなりますか?」と尋ねたところ、劉禅は郤正に教わったとおりに答えると、

司馬昭が「それ、前に郤正殿が劉禅殿に『こう答えなさい』って言ってたとおりじゃないですか~」というと

劉禅は「あ、バレちゃいましたか~(笑)」と返したので、その場にいた皆で大笑いしたそうです。

劉禅は本当に魏での生活を楽しんでいたのか?

 最近では「劉禅って実は聡明な君主だったのでは?」という説も多く聞かれるようになり、上記のような所謂「自分を卑下するようなやりとり」も魏で生き抜くための演技だったのでは……という意見も見聞きすることがあります。

もちろん、生き抜くためにそう振る舞わざるを得ない面もあったのでしょう。自分に随行するために妻子を置いてきた郤正のような配下のためにも自分が司馬昭たちから目を付けられるわけにはいきませんからね。

 それを鑑みても個人的には、やはり劉禅は魏での本当に楽しんでいたのかなと思います。父親の劉備や司馬昭たちと違って天下を取ることにはまるで興味はなさそうですものね。

それよりも面白おかしく、生を満喫したいというのが劉禅の価値観だったのではないでしょうか。

そういう生き方は当時の人たちから見たら「だらしない」やら「嘆かわしい」やら見えたのかもしれませんが、現代の私たちからしたら共感できる部分が多くあるように思います。

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