張飛の最後の死因は何?普段から部下に対してあたりが強かったの?

張飛ちょうひ、言わずと知れた…って手抜きすんじゃねえよ!とツッコまれてもいけませんので説明しておきます。

張飛ちょうひは字を益徳えきとくといって、啄郡たくぐんの出身です。若い頃から関羽かんうと一緒に劉備りゅうびに仕えていました。関羽かんうの方が何歳か年上だったので、張飛ちょうひ関羽かんうのことを兄の様に敬って接していました。

というのがオーソドックスな説明で、三国志の主要キャストの一人であり、人気キャラの一人でもあります。

そうして関羽かんう張飛ちょうひはそれぞれ、一万人の兵を相手にしても戦えるとほめ称えられました。(ってンなわけねーだろ!とツッコみたくなりますが、これは比喩ひゆで、すんげぇー強かったということなのでしょう。)

張飛ちょうひの大活躍!


そんな張飛ちょうひには勇猛ゆうもうぶりをあらわす有名なエピソードがあります。

劉備りゅうびはある時期、荊州けいしゅう劉表りゅうひょうに身を寄せていました。ところが劉表りゅうひょうが亡くなり、曹操そうそう荊州けいしゅうに攻め入ってきたので江南こうなんに逃げました、曹操そうそうはこれを24時間営業のコンビニのごとく、夜になっても休むことなく追っかけました。そして当陽とうよう長坂ちょうはんで追いついたのです。

劉備りゅうびは、曹操そうそうが突然現れたことを聞くと、張飛ちょうひに二十騎を与えて防がせるようにさせて、自分は奥さんと子供を放置プレイまでして逃げました。劉備りゅうびヒド!と言うところですが、劉備りゅうびにしてみれば「俺はかんを再興せねばならぬのだ。こんなところで死ぬわけにいかぬ」という思いがあったかもしれません。

張飛ちょうひは川に架かっていた橋をぶっ壊し、矛を手にして目をひん剥いて、「我こそは張益徳ちょうえきとくである。かかってこい。地獄の道連れにしてくれようぞ!」と言いました。敵は誰も近づこうとはしませんでした。そうして劉備りゅうびたち一行は逃げ切ることができたのです。

知的な面もある張飛ちょうひ

キング・オブ・豪傑ごうけつのような張飛ちょうひですが、意外な面も持ち合わせていました。こんなエピソードがあります。

江州こうしゅう劉璋りゅうしょう配下の将軍、厳顔げんがんを生け捕りにした際、張飛ちょうひは「大軍が押し寄せてきたのに、どうして降伏こうふくせずに戦ったのだ!」と怒鳴りつけました。

厳顔げんがんは「あなた方は無礼なことに我が州を侵略して征服した。我が州には首をはねられる将軍はいても、降伏こうふくなどする将軍はいないのだ」と返答しました。

張飛ちょうひは怒って、部下に連れて行かせて厳顔げんがんの首をはねさせようとしました。しかし厳顔げんがんは顔色一つ変えることなく、「首をはねるならさっさとやれ。なぜ腹を立てるのか!」と言いました。

その潔さに感心した張飛ちょうひ厳顔げんがんを開放し、賓客ひんきゃくとして招きました。

張飛ちょうひの最期


意外な一面もあったわけですが、やはり張飛ちょうひの場合、連想ゲームのごとく、張飛ちょうひ豪傑ごうけつと条件反射してしまいます。

そんな張飛ちょうひですからその最期は壮絶なものだったのだろうとイメージします。

劣勢の戦いで、一人奮闘して、しかし大軍なのでそれを押し返すこともできず、遂には身体に何十本もの矢を浴びて、それでも踏ん張って「ここから先は一兵たりとも通さん!」とか叫んで仁王立ちしてそのまま息を引き取るみたいな死に方を想像しがちです。(弁慶べんけいやないかい!)しかし実際はそうではありませんでした。

部下の刃で散る

221年、皇帝に即位した劉備りゅうびが、関羽かんうを殺されたリベンジとしてを攻めるのに際して、張飛ちょうひに1万人の兵を従えさせ、閬中ろうちゅうから江州こうしゅうまで進攻させて集結する手筈でした。ところが出発する前に張飛ちょうひの部下の張達ちょうたつ范彊はんきょう張飛ちょうひを殺害し、その首を持って出奔しゅっぽんし、長江ちょうこうを下り孫権そんけんのもとに向かったのでした。張達ちょうたつ范彊はんきょうに寝返ったのです。

なんともあっけない最期でした。

訃報を受けた劉備りゅうびの反応

張飛ちょうひの陣営の都督ととく劉備りゅうびに報告のための文書を送りました。劉備りゅうびは文書が届いたと聞くと、まだ何も内容を聞いていないのに「ああ!張飛ちょうひが死んだ」と言ったそうです。

これにはワケがあります。張飛ちょうひという人は自分より身分の高い人は敬い、自分より身分の低い人には冷たくしていました。なので劉備りゅうび張飛ちょうひを戒めるためによく言っていました。

「そなたは刑罰と言ってすぐに人を殺し、毎日、兵士をむち打って、しかもそんな兵士を側に仕えさせている。そんなことをしていたらわざわいを招くことになるぞ」

しかし張飛ちょうひは改めることはなかったのです。

このような経緯があったため、張飛ちょうひの陣営から報告の文書が届いたと聞いただけで劉備りゅうびは心配していたことが起こってしまったと直感的に分かったのでしょう。

まとめ

陳寿ちんじゅ張飛ちょうひ関羽かんうと併せて評しています。

関羽かんう張飛ちょうひはそれぞれ一万人の敵を相手にできる将としてほめ称えられ、この時代を代表する勇猛ゆうもうな臣下だった。二人とも国内でも特に優れた人物としての風格もあった。

しかし、関羽かんうは気が強く、自信過剰であり、張飛ちょうひは乱暴で情けがなかった。二人はそれぞれの欠点のため身を亡ぼすことになった。当然の道理である」

関羽かんう張飛ちょうひの最期については、なんとも厳しいというか、冷たいというか突き放したような見方をしています。豪傑ごうけつ二人を例に挙げて人生訓としているのでしょうか。

しかしながら張飛ちょうひが人気者であることには変わりなく、三国志を題材にした物語や劇は、張飛ちょうひを主人公にしたものが多くあります。また張飛ちょうひびょうも中国内に何か所かあり、お参りする人が後を絶たないそうです。

死後約1800年たった今でも張飛ちょうひは人々に愛され続けているのです。

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