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関羽とは
関羽は性は関、名を羽、字を雲長という後漢末期(西暦200年前後)に活躍した
劉備配下の武将です。
郭嘉
三国志の人物の中で特に本場中国の人気は絶大で、
中国各地に関帝廟という関羽を祀る廟があり、
最近壊されてしまいましたが、荊州に巨大な関羽の銅像も存在しました。
三国志演義から見る関羽の風体
羅貫中が残したといわれる「三国志演義」では関羽の風体は以下のように伝えられます。
身の丈は9尺で2尺のヒゲを蓄えていたとされています。
これを現代の長さに直すと身長216cm、ヒゲも48cmになります。
216cmの大男が50cm近いヒゲをはやしていると考えると
もはや人間じゃないように感じてしまいます。
身長はともかく関羽のヒゲが長かったのは本当のようで
諸葛亮も関羽をヒゲ殿と呼びことがあったといわれています。
顔は熟したナツメの実のように赤ら顔だったといわれています。
関羽は常に酔っぱらったような顔色をしていたようです。
ちなみに各地にある関帝廟の関羽像の顔も赤く塗られています。
そして関羽といえば武器は大きな青龍偃月刀で赤兎馬に乗っているのが一般的なイメージでしょう。
この青龍偃月刀は重さ約18kgで常人では持つのも大変なシロモノ。
これを戦場で振りかざす関羽の力はまさに化け物級といえそうです。
関羽はまたがる赤兎馬は当代きっての名馬といわれ
呂布が曹操に処刑された以後関羽に贈られたものです。
関羽の戦場での姿をまとめると、
身長2mを超えるヒゲをたくわえた大男が
これまたでかい青龍偃月刀を持ち赤い馬にまたがり
しかも腕もめっぽう強い
明らかに異質で戦場で目立っていたことでしょう。
(ただこの話は三国志演義での話です)
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後世になって関羽が神としてまつられるのもこういった姿を
民衆が想像できたからなのでしょう。
関羽の最後の戦い
関羽の最後の戦いは劉備が曹操から漢中を奪い漢中王に即位した直後に起こります。
荊州にいた関羽はまず魏と蜀の国境にある要害・樊城を攻めます。
樊城の戦いの前情報
この樊城、曹操の信頼が厚い名将・曹仁が守っていました。
曹操
曹仁なら関羽でもなんとかしてくれるはず・・
関羽が樊城攻略に用いた兵力はおよそ3万とされており
対する曹仁側は数は不明ながらおそらく数千の数しかいなかったでしょう。
いくら関羽とはいえ攻城戦は攻める側に不利
しかも相手は魏を代表する将軍・曹仁です。
普通に考えたらたかが3万では落とせないと思います。
しかしこの時の劉備軍の状況が関羽の背中を大きく押したことでしょう。
劉備軍は漢中をとったばかり、しかも魏の曹操から奪い取った。
この事実は劉備陣営にとって大きな意味を持っています。
なぜなら劉備はこれまで曹操に負け続けてきたから。
陶謙から譲られた徐州は曹操に簡単に奪われ、
袁紹に身を寄せるとそこでも曹操に負ける、
長坂の戦いでは妻や息子を失いそうになりながらも
孫権のもとに落ち延びます。
今まで負け続けた曹操から領土を奪いしかも
夏侯淵まで討ち取り完全勝利に酔いしれていました。
それはまるで劉備の祖先である漢を創設した劉邦を見るかのようなもの
このまさに天を衝かんばかりの勢いが蜀軍全体にあったことでしょう。
しかも関羽はプライドが高いことで有名な人です。
漢中攻略戦ではただ荊州を守っているだけでした。
関羽
漢中では黄忠が夏侯淵を討ち取っている
ならばわしも樊城を手に入れ武功を挙げてみせる
今度こそは、今度こそは武勲が欲しいと関羽は願っていたでしょう。
そのためには曹仁が守る樊城をとる
このことに関羽は執念を燃やします。
ぽっと出の老将・黄忠が夏侯淵を討ち取り漢中をとったのならワシは、それ以上の名将曹仁をさらに重要拠点・樊城を落としてやる
その思いが兵士たちの士気を大いに高め、攻城戦の不利を覆し破竹の勢いで樊城を攻めることになります。
樊城攻防戦
関羽が樊城に進行することを知った曹操は
いかに曹仁とはいえ関羽相手、しかも今は勢いに乗っている蜀軍ということで
精鋭部隊である七軍(約3万)を于禁に与え援軍とします。
この時于禁は曹操軍の左将軍で武官として于禁以上の地位にいたのは夏侯惇のみでした。
ちなみに夏侯惇は戦に弱く呂布に捕らえられたり劉備に負けるなど戦でいいところはあまりありません。
対して于禁は曹操の信頼が厚く于禁無くして袁紹に勝つことはなかったでしょう。
そもそも曹操が兗州で地盤を築けたのも于禁の力によるところが大きいです。
于禁に対する曹操の信頼は夏侯惇・曹仁など親戚筋以外では群を抜いていました。
さらに曹操は漢中をとった劉備も警戒しなければならず、
これ以上劉備が快進撃をすると長安すら危うい状況でした。
そのなかで精鋭3万しかも絶対的な信頼をもつ于禁を援軍に出したことは
それだけ関羽を警戒していた裏付けになります。
後に于禁が降伏した後曹操は遷都を考えたことから、いかに于禁の降伏が衝撃だったかを物語ります。
曹操
関羽とはそれほど強かったのか・・・
このままでは許都も危ういのではないか
遷都したほうが良いのかもしれん
早まってはいけません。
関羽の勢いは一時のものにすぎません。
樊城もまだ落ちていないのに遷都をしてしまうと
兵士の士気が下がります。
それよりも援軍の準備を
司馬懿
さて、援軍に赴いた于禁ですがこれらはすべて陸軍の兵士です。
対する関羽軍は陸・海軍両方を伴っていました。
これが命運を分けてしまいます。
樊城にいる曹仁も城を防衛するだけでは分が悪いと思ったのか、
馬超の元配下・龐徳を城外におき関羽に当たらせようとします。
曹仁・于禁・龐徳がそれぞれ連携して関羽に当たろうと考えていた矢先、
戦場には雨が降り始めます。
この雨は何日も止むことはなく、次第に水たまりは集まり川となり
樊城の城壁さえも飲みこもうとしていました。
この無尽蔵の雨に喜んだのは、水軍を持っていた関羽でした。
陸軍しか持たない于禁はたまらず配下3万の兵ごと降伏
龐徳は徹底抗戦の構えでしたが、小舟に乗っているところを
捕らえられ処刑されてしまいます。
窮地に陥った曹操と樊城でしたが、対策を二つ立てます。
徐晃の援軍
于禁の敗北を知った曹操は急いで徐晃を大将に援軍を樊城救援に向かわせます。
しかし、この徐晃軍さきほど于禁が率いた七軍のような精鋭とは程遠く、
新兵中心のいわば烏合の衆
徐晃軍5万に対して関羽軍は3万数としては有利だが、
関羽が長年熟成した精鋭と当たれば負けるのは必定。
そこで徐晃がとったのは持久戦でさらなる援軍を待つこと。
徐晃は樊城が落ちないように城に手紙を打ち込み曹仁軍を鼓舞しながら、
曹操からの援軍を待ちます。
呉の参戦
関羽にとって呉の参戦は大きな誤算だったはず。
当時劉備と孫権は対曹操で同盟を結んでおり、
味方に付くことはあっても敵になることはないだろうと考えていた。
しかし、関羽は孫権から裏切られても仕方ない行動を何度も繰り返している。
まず関羽は孫権をかなりバカにしていて、
孫権が自分の息子と関羽の娘を結婚させようとしたとき、関羽は
関羽
と一蹴
いやお前の兄貴は犬の娘と結婚しただろうと
誰もが思う場面です。
たかが劉備の配下の将軍にここまで言われた孫権のプライドはズタズタ
孫権の恨みを買うことになります。
覚えておれよ関羽・・・
孫権
さらに于禁軍3万を吸収し、関羽軍3万に対して捕虜3万
当然必要な兵糧も倍になり兵糧が尽きてしまいます。
あろうことかここで関羽は孫権軍から兵糧を奪ってしのぎます。
なぜ義に厚いといわれる関羽がこのことをしたのか不明ですが、
このことが決定打となってしまいます。
また、関羽と仲が良く同盟の立役者だった魯粛が死んでいたことも
大きな原因となっていた。
その後の関羽
兵糧がなくなっていき、さらに樊城攻略の兵をあげてから時間がたったことで、
兵士の士気は徐々に下がっていった。
一方、徐晃軍には続々と援軍が到着し兵力差は拡大し続けている。
こうなると関羽軍は分が悪くなる。
大将が凡夫な将軍ならいざ知らず、相手は関羽も尊敬する徐晃である。
関羽
一筋縄ではいかん・・・
結局、関羽は徐晃に破れ樊城を撤退することになる。
しかもこのタイミングで孫権が関羽に突如牙をむき
都督となった呂蒙が、荊州をほとんど落としてしまった。
前には徐晃・後ろには呂蒙
荊州も落とされ兵士を兵糧もわずかしかない。
関羽はわずかな手勢で麦城という小さな城に逃げることとなる。
関羽の最後と死因
関羽が麦城に逃げ込んだときに曹操軍は追ってこず、
孫権軍のみが麦城を包囲しています。
なぜ曹操軍が関羽を追撃しなかったというと、
関羽を打ちとり劉備・張飛の恨みを買いたくなかったからだといわれています。
事実、関羽の敵討ちと称して劉備は孫権に戦いを挑みます。
そうなると一番得をするのは曹操軍です。
どちらかが勝っても金・兵糧・兵士を消耗しています。
曹操は漁夫の利を得ることができると考え追撃しなかったことでしょう。
話を麦城の関羽に戻します。
麦城は小城で孫権軍は瞬く間に城を包囲してしまいます。
兵糧も少なく城壁も高くなく籠城は不利と判断した関羽は、
闇に紛れて逃走を図ります。
しかし孫権軍はそれを見抜き関羽は実子の関平とともに捕らえられます。
孫権
配下として魏や蜀の戦に用いれば
これ以上心強いことはない
昔関羽が曹操の下にいたときのことをご存知でしょう?
こやつはどんな褒美にも目をくれず劉備の下に駆け付けました。
生かしておけば必ず呉に再び牙を剥くことでしょう。
部下
孫権は関羽の力を惜しんだが、過去曹操がいくら関羽を厚遇しても
劉備への忠誠心を示し続けたことから斬首を執行してしまいます。
その後、劉備の恨みを恐れた孫権は首を曹操に送り付け
首謀者は曹操ということを示します。
孫権は首から下を、曹操は首を国葬としています。
関羽の最後の言葉とは
関羽の最期の言葉は正史にも三国志演義にも記載はありません。
もし知っている方がいたらコメントでお教えいただけたらと思います。
横山三国志では
「さあ、早く斬れ生かしておいては今度はわしが呉を攻め滅ぼすぞ」
『三国志』(C)横山光輝/潮出版
蒼天航路では
幸福な夢を生きた
『蒼天航路』(C)李學仁(原作・原案)、王欣太(作画)/講談社
とどちらも潔く死を恐れてない勇敢さを描いています。
高潔でプライドが高い関羽が命乞いなどするはずがなく
実際にもこれに近いような言葉が最後だったのではないか思います。
孫権はどうすればよかったのか?
孫権は関羽を斬首してしまいますが、はっきり言ってこれは失策です。
これを口実に劉備は呉に進行を開始します。
劉備
孫呉つぶすべし・・・・
もちろん劉備のにとって関羽は主従関係を超越した存在、
敵討ちをしたいという気持ちも大いにあったでしょう。
さらに荊州は劉備にとって重要な拠点でした。
なぜなら荊州と魏の国境はほとんどが平地、大軍を動かしやすい地形です。
一方漢中と魏の国境は山地で守りやすくとも道が狭く攻めるのに向いていません。
さらに兵士の補給も一筋縄ではいきません。
魏討伐を掲げる劉備にとって荊州から魏を攻めるのが効率がいいのです。
そうなると孫権がとるべき最善手は、
関羽を捕虜として劉備と有利な同盟を結ぶことでしょう。
魏にとって一番うれしいことは呉と蜀が争いあうこと、
逆に一番されたくないことは再び呉と蜀が手を結ぶことだからです。
これは呉と蜀が呼応して魏に侵攻するときにも役立ちます。
蜀は漢中から、呉は荊州または合肥から進行することができ
魏にとってはどちらかが突破されても大混乱になります。
しかも距離が遠く援軍向かわせるにも時間がかかり、
兵糧を運ぶのも大変です。
孫権が関羽を切ってしまい
呉と蜀が争うようになってしまったこと
この事実が三国志のなかで大きな意味を持っていました。
名作”三国志 Three Kingdoms”を無料で視聴する方法
三国志は映画やドラマなどいろいろな作品がありますよね!
その中でも本場・中国で制作された”三国志 Three Kingdoms”は名作との呼び声が高く、管理人自身自信をもってお勧めできる三国志ドラマです。
実はYouTubeなどにもあるにはあるんですが、全部の話はなくとびとびの話しかなかったり違法行為なので運営から削除されて見れなくなったりしています。
以前はFODプレミアムやU-NEXTの無料期間を使うことで無料視聴ができましたが現在はもう配信されていません。
現在でもTUTAYADisucusとmusic.jpでは配信されていましたが、どちらもレンタル扱いで無料とはいかなくなっています。
どうしても無料で見てみたい方はYouTubeで「三国志 Three Kingdoms」と検索すると見れるものがまだあるかもしれません。
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