皆さん, 張角と言う名前を聞いたことがありますか?
184年に「黄巾の乱」を引き起こしたリーダーです。
彼は皇帝になりたかったのでしょうか?
それを探るために、「黄巾の乱」が起きた時代の中国社会の状況に加えて、張角の人物像、その後、中国の社会がどうなっていったのかをお伝えしたいと思います。
目次
黄巾の乱の時代
話は、黄巾の乱から16年前にさかのぼりますが、168年に12代「霊帝」が即位します。
漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼし、漢(後漢)を再興して都を洛陽においたのが西暦25年ですから、霊帝が即位するまでに後漢は、140年が経過したころの話です。
霊帝が即位したころには、漢の国自体も財政的に豊かではありませんでしたし、皇室自体も豊富な財産を所有している状態にはありませんでした。
財政困難に直面して、霊帝は、官位をお金で売買することを承認します。
そして、高額なお金で官位が取引され、国にはお金が入ってくるようにはなりましたが、人々の心は離れていきました。
役人たちは、官位を手に入れる資金を調達するために庶民に重税を課し、官位の欲しいものは皇帝の側近たちにも賄賂をおくるようになったのです。
いわゆる、金で政治が動く時代になっていきました。
また、この時代、地方では天災による飢饉が続き、庶民の生活は苦しくなっていきました。
張角とは、どんな人?
張角の生年月日は不明ですが、冀州・鉅鹿郡の出身だと伝えられています。
若いころは、高級官僚を目指していましたが、試験に合格せず、官僚になることはありませんでした。
歴史上、張角について記録から確認できるのは、160年代の末から、170年前半において、原始道教を起源とする太平道を興してからです。
職業は、民間療法医師 兼 宗教活動家でした。
具体的には、民家を訪問して、まじないを施し、病気を治すというものでした。
今でいうと、訪問医療になるのでしょうか?
太平道とはどんな宗教
太平道の教義は、いたってシンプルで、”物事の吉凶禍福は日々の行いに起因し、善行を積み重ねることで災いを回避できる”というものでした。
言い伝えによれば、張角が山に薬草を取りに行った際、「南華老仙」と呼ばれる仙人に出会い、仙人から、「太平要術の書」と呼ばれる3巻を授けられ、世直しをするようアドバイスされた。ということになっています。
「南華老仙」は、荘子が仙人になった後の呼び名と言われています。
荘子は、記録によると紀元前370年~紀元前300年くらいまで生きていたことになっていますので、張角の時代と500年以上も差があります。
ただ、この太平道の考え方が、荘子などの道教をベースにしたものであったことは事実です。
張角は、風雨を呼ぶ妖術が使えるようになり、“符水”と名付けられた水を飲ませることや、平伏して懺悔させること、あるいは「九節の杖」により、病を癒し、人々の信奉を集めていき、10年ほどで、数十万の信徒を得るようになりました。
「三国志演義」の中では、後に登場するヒーローの一人, 諸葛孔明も赤壁の戦いで妖術を使い、風を東南の方角に変えたと伝えられていますので、妖術や仙人という概念は、現代よりも当時は身近に感じられる時代だったのかもしれません。
また、数十万の信徒という数も事実であったのかは、断定が難しいところです。
曹操が建国したころの魏の人口は、およそ400万人, 孫権の呉の人口が約200万人, 劉備の蜀にいたっては、人口100万人を切っていたと言われていますので、数十万人はかなり多い印象を与えるかもしれません。
不安と腐敗した社会の中、超人的な能力を持つ「張角」のような人物の登場が期待されていたことには間違いがありません。
張角は皇帝になりたかったのか? 黄巾の乱に発展した直接の原因は何か?
張角や太平道の教義は、当初、それほど問題視されるものではなかったと言われています。
その理由は、太平道が、霊帝の先代の天子, 桓帝が信奉していた黄老道にも似通ったもので善道を説くものであったからです。
しかしながら、太平道の信者が張角の力により、罪を逃れようとした事件が起こり、官吏と太平道との摩擦が大きくなっていきました。
そして、朝廷は太平道を弾圧する方向へと傾いていきます。
やがて、張角は、信徒を36の方に分け、それぞれの集団を将軍にまとめさせて軍事訓練を行うようになっていきます。
184年には、太平道が後漢王朝に取って代わることを暗示するスローガン
「蒼天已死 黃天當立 歳在甲子 天下大吉」
(蒼天すでに死んでおり、黄天がまさに立つべきだ。歳は甲子の時にあたり、天下大吉だ。)
を掲げて、スローガンの内、「甲子」の2文字を役所や家の門に書かせていたと言われています。
甲子は、干支との組み合わせの1番目の年で”60年に1度変革が起こる年”, つまり漢王朝は終焉することを暗示していました。
また、黄色の頭巾を頭に巻いて戦ったのは、黄天が「太平道」の信奉する神であったためです。
太平道と朝廷の摩擦が大きくなったきたのが、反乱の原因のひとつかもしれませんが、184年時点では、既に張角サイドは朝廷と戦う準備もすすめており、後漢を倒すことを目標にし、新しい皇帝になることを目指していたと考えられます。
黄巾の乱とその結果
張角サイドの当初の計画は、張角側の将軍を都の洛陽に送り込み、洛陽を内と外から蜂起することでした。
しかし、その計画は張角の弟子の一人から宦官たちに密告され、洛陽に派遣されていた将軍(馬元義)は処刑されます。
この事件を重く見た霊帝は、張角捕縛の命を下します。
計画が露見したことを知った張角は予定よりも早く反乱を決起します。
時間が経つほど不利になると考えたからです。
張角は、自らを天公将軍と称し、弟の張宝、張梁をそれぞれ地公将軍、人公将軍として、184年2月に冀州、豫州を中心に一斉に蜂起します。
しかし、張角は数か月後に病死し、その後も各地で、反乱は続きますが、同年10月に広宗が陥落したことで黄巾の乱は収束しました。。
最後に
この黄巾の乱と戦ったのが,後に表舞台に立つ,曹操であり、孫堅であり、また僅かな兵力で参戦した劉備でした。
黄巾の乱の原因であった後漢王朝の政治は改善されることなく、あちらこちらで反乱が勃発し、やがて三国志の時代に入っていきます。
黄巾の乱は、正に三国志の物語の始まりだったのです。
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