呂布は本当に強かった?赤兎馬と方天画戟はどんなもの?

 正史においても、三国演義においても、最強の武将として描かれている呂布りょふ。中国史上という非常に大きなスパンで見ても、あの【四面楚歌しめんそか】で有名な項羽こううと並び立つ武将と評されているようです。

どうして関羽かんう張飛ちょうひ張遼ちょうりょうなどの並み居る有名武将たちを抑えて、呂布だけがここまで別格扱いされているのでしょうか?

この記事ではそんな呂布について、皆さんにご紹介していきたいと思います。

演義での呂布の強さ


 演義において、武将の強さを語る上で何よりも外せないのは一騎打ちでしょう。一騎打ちの強さ=武将の強さ、と置き換えてもいいのではないでしょうか。呂布は討ち取った武将の数でいえば、主人公格である関羽や張飛、趙雲ちょううんといったところに到底及びません。

しかしどんな武将よりもインパクトを残した一戦があります。虎牢関ころうかんの戦いにおいて、関羽と張飛を同時に相手どり、互角に渡り合った場面です。関羽と張飛も生涯において一騎打ちで負けたことがなく、名のある武将に勝ち続けた武将ですが、その二人を同時に相手どる……などという離れ業を見せている呂布は間違いなく最強クラスに強いと言えるでしょう。

正史での呂布強さ

 正史においては武将同士の一騎打ちの場面はそれほど多くないので、武将の強さを測るには兵を率いての合戦の戦績を見てみるほかにありませんが、呂布の戦績は決してよいとは言えません。勝ったり負けたりを繰り返し、最後には曹操そうそうによって滅ぼされています。

 しかし合戦には兵力差はもちろんですが、誰と組んで誰と敵対するかなどの外交的な駆け引きなども関係くるので単純な戦の強さ・上手さを判断することは難しいです。

例えば呂布の最後の戦いとなった下邳かひの戦いにおいて、呂布が敗れた最大の要因は彼の戦の腕前というよりも、あてにしていた袁術えんじゅつから援軍を送ってもらえなかったという外交的な力のなさに尽きると思います(外交力を含めての戦闘力というのであれば曹操などよりも数段下と言えるでしょうけども……)。

 それでも歴史家や三国志ファンの中には呂布は強かったという声が多くあります。それはおそらく【ある一戦】が大いに呂布の評価を高めているからだと考えられます。

その一戦は『演義』ではあまりスポットライトを浴びないため、有名な戦いではありませんが、彼の戦歴に燦然さんぜんと輝く戦いとなりました。それこそが張燕ちょうえん率いる黒山賊こくざんぞくとの戦いです。

黒山賊って何なの?

 184年の黄巾の乱と時を同じくして、張牛角ちょうぎゅうかくという人物が率いる最凶の盗賊集団【黒山賊】が頭角を現します。

この集団は普通の一般市民の集まりであった【黄巾族こうきんぞく】とは異なり、無法者たちの集まりで山賊や罪人、不良集団などで構成された、完全なる反社会的勢力でした。

彼らは世の乱れに乗じて、各地で略奪行為を繰り返して徐々にその数を増やしていき、当初は一千ほとであった族の数は一万にも達するほどになりました。

 やがてリーダーである張牛角が亡くなると、張燕という人物がその後と継ぎます。この頃には各地から族が終結しており、最盛期には100万というとてつもない数になっていたようです。さすがにこれ以上は黒山族を放置してはおけないと漢王朝が討伐に乗り出すのですが、散々に打ち負かされてしまいました。

 しかし張燕はそのまま略奪行為を続けることはせず、なんと漢に帰順することで自らの徳を世に示したのです。漢王室も張燕のこの行為に応えるために【平難中郎将へいなんちゅうろうじょう】の位を彼に与えます。

この位に就く者は、その土地に住む有能な人材を中央に推薦できるという立場でありました。つまり、その土地の統治者として皇帝から認められたということであり、住民から税を徴収できるようになったのです。

「人中の呂布、馬中の赤兎せきと


 董卓とうたくが国の実権を握ると、張燕は董卓とうたく公孫瓚こうそんさんと手を組み、袁紹えんしょうと敵対することになります。

袁紹は公孫瓚を倒すと、続いて張燕の討伐を試みるのですがまったく歯が立ちません。袁紹が困っているときに一人の救世主が現れるのです。それが主君・董卓を討ち、都を追われるようにして袁紹を頼ってきた呂布だったのです。

 袁紹は呂布を手厚くもてなすと、黒山賊をなんとかしてくれないかと呂布に打診します。呂布はこのとき手勢わずか数百騎ほどでしたが、庇護してくれた礼にと、この難題を引き受けました。

 精兵1万と騎馬数千という圧倒的大軍の黒山賊。対する呂布はわずかな手勢の騎馬数百騎のみ。しかし呂布とその手勢たちは、黒山賊の大軍に突撃を行いました。その突撃は1日に3~4回、繰り返すこと数十日にも及んだそうです。

その突撃はすさまじく、呂布の軍団は突撃から帰還するたびに大量の首を抱えてきたそうで、次第に黒山族は呂布に恐れをなして逃亡する者が続出し、ついには完全瓦解してしまったのです。

 この働きを袁紹は大いに賞賛し、「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と最大級の賛辞を送ったと言われています。当時の袁紹といえば、群雄たちの中でも頭一つ抜けた存在でしたから、そんな袁紹にここまで言わしめた呂布はやはり強かったと言っていいのではないでしょうか。

呂布の相棒、赤兎馬せきとば方天画戟ほうてんがげきってどんなものなの?

 愛馬である赤兎馬に跨り、方天画戟を手に戦場を疾走する呂布。それぞれどのようなものであったのか、ご紹介していきたいと思います。

赤兎馬ってどんな馬?


 馬体は全身赤く、ウサギのように素早く走るという赤兎馬。呂布の愛馬であり、後に関羽の愛馬として戦場を駆けぬけました。

 1日に一千里(当時の中国で1里=400メートル)も走るという馬ですが、実際そんなに走ったら馬が潰れてしまいそうですよね。とはいえ、その存在は完全なフィクションというわけではないようです。

 後漢書には「布常御良馬 號曰赤兔 能馳城飛塹(呂布は赤兎という名の良い馬に乗っていた。その馬は城を駆け、堀を飛び越えることができた)」と記録されているので、少なくとも呂布は実際にとても優れた馬に乗っていたということがわかります。

方天画戟って実在するの?


 方天戟という武器の一種で、西洋ではハルバード比定されるそうです。まるで斧のような刃先が戟の先端に備わっていてカッコいいですよね。呂布の使っていたとされる方天画戟は長さがなんと3メートル近く、重さも10キロを軽く超えるものであったといいますが、実際に方天戟という武器が発明されたのは三国志の時代よりも後のことなので、赤兎馬とは違いこちらは完全にフィクションなようです。

まとめ

 いかがでしたでしょうか? 「呂布は最強の武将か?」と聞かれたらもしかしたら別の武将を挙げる人も多くいるとは思います。しかし「呂布は本当に強かったか?」という問いには反対する人は皆無でしょう。

歴史書はあくまでも勝者にとって都合のいいように残されてしまうものですが、赤壁の戦いはおろか官渡かんとの戦い以前に亡くなってしまった三国志の武将でこれだけ後世にまで語り継がれている武将は呂布以外にはいませんものね。

呂布軍に長く使えていた張遼がその後曹操の下で八面六臂はちめんろっぴの大活躍を見せていた事実からも、もし曹操が呂布の降伏を受け入れ、その手綱をしっかりと取れていたら歴史は変わっていたと考えられるのではないでしょうか。中国には「曹操が呂布を殺す(後悔するの意)」ということわざがあるくらいですからね。

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