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袁術は有能か無能か?孝廉に推挙された人格者の一面
袁術は汝南の名家・袁家に生まれた後漢末期の武将です。
官渡の戦いで曹操と戦った袁紹のいとこ・または異母兄弟にあたります。
名門・袁家の御曹司でありながら、青年期は仲間たちと放蕩生活を送っていましたが、後に改心し、名門の子息であることから孝廉に推挙されて郎中に就任します。
孝廉に推挙されたということは、父母への孝養を尽くし、さまざまな物事に対して廉正な態度で臨むことができる人物であると評価されたということになります。
青年期の袁術は、どちらかというと親孝行で人格者であるという周囲からの評価だったようですね。
嫉妬深く豪奢な生活を好む野心家
父母への孝養の心が篤く、物事への廉正な態度を以って孝廉に推挙された袁術ですが、自分が袁家の嫡男であるという強い自負と気位の高さがあったようです。
謙虚で快活だった同族の袁紹が自分よりも声望が高く、許攸や何顒といった名士たちが袁紹とばかり交流していたことを妬み、彼の出自の低さを度々槍玉にあげては中傷し、袁紹とよく交流があった何顒らを憎んでいたようです。
また、長水校尉になる際には性格が横柄で、移動の際は豪華な馬車によく乗っており、「路中捍鬼袁長水」(鬼のように荒々しく忙しく道を行く袁長水)と呼ばれていたそうです。
袁術
反董卓連合にも加勢しますが、その最中に自分に害が及ぶのを恐れて荊州・南陽に逃れます。
逃れた南陽で、長沙太守だった孫堅が当時の南陽太守だった張咨を殺害したため、その後釜に座る形で南陽郡を支配し、孫堅をもその影響下に置きます。
孫堅を豫州刺史に任じて董卓を攻撃させ、191年に陽人の戦いで孫堅との連合軍で董卓軍を破り、4月には洛陽を占領する戦果を挙げます。
孫堅を豫州刺史の座に就かせた袁術ですが、袁紹はそれを無視する形で周昻(あるいは周喁)を豫州刺史に任命し、孫堅の陣地を攻撃させました。
それに対して袁術は孫堅への援軍として、以前袁術の歓心を買おうとした公孫瓚に提供された公孫越の軍を派遣しますが、敗戦の上公孫越も戦死してしまいます。
その後、長安に入った李傕が袁術を味方につけようと左将軍・陽翟侯に袁術を任命すると、その使者を抑留し、部下だった孫策や朱治にも強引に官職を与えるなどしたようです。
南陽太守として人口も多く豊かだった南陽郡を支配していた袁術ですが、豪奢な生活を好んだため民への税が重くなり、南陽の民は重い徴税に非常に苦しむことになってしまいました。
袁術の大きな過ち
195年、献帝が長安から這う這うの体で逃げ出し、曹陽で大敗し明日をも知れない状態になったと聞くと、「漢帝国の命脈は尽きた」と側近たちに帝位に就く意思を漏らしていましたが、その時は側近たちに押し留められて帝位に就くことを渋々断念しています。
しかし皇帝という地位を諦めたわけではなく、翌々年の197年正月に張炯の進言を取り上げ、寿春を都として『仲』という国の皇帝に即位しました。
袁術
仲の皇帝として即位した袁術ですが、当然大半の諸侯から承認を受けられず、また袁術自身も私欲が強く豪奢な生活を追求したため、ここでも民への重い徴税を行いました。
結果、重税にあえぐ民や兵士は飢えに苦しみ、彼らは反感を募らせていきます。
この自己中心的な暴政に、民や兵士だけでなく家臣の心も離れていってしまいます。
仲は度重なる敗戦と悪政に飢饉が重なり、どんどんと衰えていきます。
その最期も、病を得て灊山にいた雷薄と陳蘭を頼ろうとしますが拒絶され、江亭でわずかな麦くずしか残っていない食糧難の状態の中で絶望の言葉とともに一斗あまりの血を吐いて死ぬという、自業自得とはいえ寂しいものだったようです。
袁術
以上のことから、青年期には忠孝の心の篤い人間だと言われていたようですが、袁術の本質はプライドが高く他人を見下しがちで自己中心的な人物であったようですね。
南陽郡を支配したことや曹操と袁紹が敵対することを予見するなど、天下の分析に関しては有能だったようですが、その性格が災いして為政者としては有能とは言えないようです。
名門の袁家ってどんなとこなの?
袁紹や袁術らを輩出した汝南の袁家は、後漢前期からその名前が高くなる地方名士の家系でした。
袁家の名門としての礎を築いた袁安の祖父・袁良は孟子の易を学んだ儒者であり、前漢末期の平帝のときに太子舎人、後漢を興した光武帝のときには成武県令にまで上り、地方名士の家系の始まりとし、後漢の明帝からその次の章帝の時代に袁安によって礎が築かれました。
袁安により築かれた『名門』の礎
この袁安も祖父・袁良と同じく家学である孟子の易を学び、後漢の第2代皇帝・明帝のときに孝廉に推挙されて県令を歴任、楚郡太守を経て首都・洛陽の行政長官である河南尹に出世し、厳明かつ寛大な善政を行いました。次の章帝のときには朝廷の最高位である三公のひとつ、司空に任ぜられたのち司徒に転任します。
章帝の死後、幼い和帝が帝位に就くと、その外戚の一族の専横に真っ向から反対します。以降100年余りにわたって汝南袁氏の清流名門貴族としての地位は、袁安の清廉潔白な行いと儒学を修めた清流派官僚としての高い評価に由来するものだったようですね。
『名門・汝南袁氏』の盛衰
汝南袁氏の高い評判は袁安ひとりだけのものではなく、その息子である袁京・袁敞の兄弟やさらにその子供たちの出世にも裏打ちされています。
兄・袁京は侍中から蜀郡太守、弟の袁敞は東郡太守から太僕、光禄勲を経て最終的に司空にまで上ります。
袁京の子である袁湯は袁紹と袁術の祖父にあたり、彼は袁安の孫の世代で最も高位の三公にまで上りました。袁湯の代で一度汝南袁氏は衰退しますが、その子である袁逢が早世した兄・袁成にかわって家督を継いでから汝南袁氏の権勢は最高潮に達します。
袁逢は名門・袁氏の跡取りとして朝廷で重用され、霊帝のときには太僕から三公の司空にのぼります。その弟である袁隗も若いころから顕官を歴任して兄より早く三公の司徒にのぼり、霊帝の次男・献帝が即位したときに朝廷最高位の名誉職・太傅に就きました。
袁術
袁逢の死後、家督を継いだ袁逢の息子・袁基も太僕に就いていましたが、黄巾の乱の平定後に専横を始めた董卓に袁基のいとこの袁紹と袁基の弟・袁術が反抗して挙兵したため、洛陽にいた汝南袁氏の一族二十数名はことごとく殺害されたため、中央貴族としての汝南袁氏は消滅してしまいました。
三国志における袁家
中央貴族としての袁氏は消滅してしまいますが、後漢の動乱の中、汝南袁氏は袁紹や袁術によって地方軍閥として形成されていきます。
袁紹は父・袁成が最後まで宦官と手を結ばないまま死去したため、清流派名門としての名声が高く、若くして官職に就き、諸官を歴任したのちに司隷校尉となり、董卓が献帝を立てようとしたときに董卓のもとを離れて冀州に逃れましたが、名門・袁家の力が一か所に集結することを恐れた董卓によって逃亡の罪を赦され、渤海太守に任ぜられます。
その後、曹操とともに結成した反董卓連合の盟主になりますが、連合の瓦解後には冀州に戻って牧となったのを最初に幽州・并州・青州をわずか数年のうちに手中に収め、官渡の戦いで大敗して没するまで華北四州を支配する大勢力に上り詰めました。
一方の袁術は名門・袁氏の子息であることから孝廉に推挙され、その後河南尹から虎賁中郎将にのぼります。董卓が洛陽に入った後は南陽に逃れ、孫堅が殺害した張咨にかわって南陽太守に就任し、袁家の本来の地盤であった河南南部の勢力になります。
袁術はのちに仲の皇帝を名乗りますが病没しました。袁術の妻子は孫策に保護され、袁術の長男であった袁耀は孫権のもとで郎中に、その娘は孫権の五男・孫奮に嫁ぎ、袁術の娘は孫権の妃嬪となりました。
また、袁術自身の妹も弘農の四世太尉の名門・楊氏の楊彪に嫁いで楊修の生母となりました。
袁紹・袁術とその子孫の没落により、汝南の名門・袁家は一度表舞台から姿を消してしまいますが、その後も袁紹の次男・袁熙の子孫である袁恕己が唐の中宗のもとで宰相を務めるなど、没落した後も傍系を含めた名門・汝南袁氏の血筋は脈々と受け継がれていったようですね。
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