劉禅はクズで暗愚じゃない!若くして即位し、乱世にあって弱小国を40年存続させた皇帝

皆さんに『劉禅りゅうぜんとはどのような人物か』と聞くと、おそらく『暗愚あんぐ』であるとか『無能』、『どうしようもない人物』という評が多いのではないでしょうか。

しかし、実際はただ暗愚で薄情な皇帝というわけではなかったようです。

幼年期の劉禅の様子

劉禅は207年に劉備りゅうびとその側室そくしつかん氏との間に生まれました。

翌208年、曹操そうそう荊州けいしゅう征伐の際に趙雲ちょううんに救われ、劉備の後妻・そん夫人によってに連れて帰られそうになった際には張飛ちょうひと趙雲によって奪回されるなど、強運の持ち主といえそうです。

というか幼少期で劉禅はいろいろと危険な目にあわされていますね・・・・

221年の夷陵いりょうの戦いで父・劉備が呉の孫権そんけん征伐に赴いたときに15歳の劉禅は首都・成都せいとの留守を任され、夷陵で劉備が敗戦した際に益州えきしゅうで起こった反乱を、諸葛亮しょかつりょうらの働きで鎮圧します。

諸葛亮を実父のように思っていた


223年、17歳という若さで劉備の死により皇帝に即位し、諸葛亮ら信頼できる家臣に政務を任せて国を守ります。

諸葛亮が234年に病没したときには、3日間に渡り白い喪服で哀悼あいとうの意を示した上、諸葛亮の死を「彼は大軍を率い、隙をみて裏切ろうとしていた節があります。彼の死は皇室御一家にとって禍いが去り、安泰になった証拠であります。これは国を挙げて祝賀すべきことではあれど、葬儀をすべきではありません」と上奏した李邈りばくを怒りのあまり処刑するなど、先の皇帝・劉備の時代からずっと蜀を支え続けてくれた諸葛亮への信頼と恩義の気持ちは非常に強く持っていたことが分かります。

劉禅

おまえ、諸葛亮を悪く言ったな、はい死刑
ひいぃぃ~、お慈悲をぉ~

李邈

また、『蜀の四相』と称された諸葛亮・蔣琬しょうわん費禕ひい董允とうじゅうら有能な家臣を重用し、特に諸葛亮に対しては即位直後で王位簒奪おういさんだつの危険があったにもかかわらず、父・劉備の頃から仕え続けてくれていた諸葛亮に全幅の信頼を置き、内政の全権を任せるなど、自身を上回る能力のある部下を認め、信用・信頼し政務を任せるという君主の条件を満たした人物でもありました。

同じ戦乱の世にあって、特に隣国の呉では政治の乱れによる反乱や王位継承争い、それに伴う臣下の分裂など、内紛が度々起こっていました。

三国がそれぞれ相争う乱世において、1人で40年もの長きに渡り治世を築いたのは劉禅ただ一人だったのです。

優秀な臣下が旅立った後

諸葛亮や費禕の死後、宦官かんがんであった黄皓こうこくの台頭を許し、軍部の実権を握り北伐ほくばつにこだわった姜維きょういを諫められず、姜維ら武官と黄皓ら文官の対立を止められなかったことから蜀は衰退していき、最終的には北伐を完了した魏が大軍を率いて南下すると、鄧艾とうがいが険道を迂回して首都・成都に進軍してきたことや、黄皓が姜維の援軍を求める訴えを握りつぶしたことなどから対応が後手後手にまわってしまいます。

こうしたことから、ついに劉禅は降伏を決断しました。

この降伏も劉禅へのマイナスイメージの原因の一つになっていますが、そもそも姜維の度重なる北伐で元々豊かではなかった国は疲弊ひへいしており、それを知っていた劉禅が「国力の差が明らかなこの状況で、これ以上民衆を危険に晒し続けるわけにはいかない」と判断したとも考えられます。

蜀滅亡の原因になった臣下を重用し、衰退を招いたのも事実ではありますが、戦乱の世にあって、有能な臣下を正しく重用して、他国よりも国力や環境で劣る弱小国であった蜀で40年に渡るどこよりも長い治世を築き上げた劉禅は、決して暗愚なだけの皇帝ではなかったと言えるのではないでしょうか。

 

なぜ劉禅は暗愚と言われているのか?


なぜ、これほどまでに『劉禅=暗愚』と言われているのでしょうか。

一つは、『演義』で過剰なまでに暗君に描かれたことや、他の作品においても演義を踏襲とうしゅうしたキャラクター付けが為されたことが挙げられます。

羅漢中らかんちゅうの『三国志演義』では、劉備を善玉として持ち上げるあまり、蜀を滅ぼしてしまった劉禅に関しては殊更ことさらにこき下ろす描写が多くみられます。

それもあって、多くの人々の目に触れる『演義』ベースの作品からのイメージで『劉禅=暗愚』と印象付けられているのではないでしょうか。

しかし、正史においても諸葛亮が病没し、その後蒋琬と董允も没するなどして部下の入れ替わりが起こると、宦官であった黄皓を重用するようになるなど、徐々に劉禅の政の雲行きが怪しくなっていきます。

宦官である黄皓の台頭

黄皓を重用するようになって以降、建国の功臣や亡命してきた夏侯覇かこうは諡号しごう濫発らんぱつしたり、黄皓と姜維のお互いの殺害を企てようとするほどの対立などの要因が重なり、最終的に263年に魏が蜀に大規模な侵攻を行った際、姜維の援軍を求める訴えを黄皓が占いによって無視させたため、対策が後手に回ってしまい、蜀の滅亡を招いてしまいます。

黄皓

なんやあいつ、気に食わんから援軍拒否したろww

また、晋代に書かれた『漢晋春秋かんしんしゅんじゅう』には、劉禅が投降した際に催された魏国の宴席で、蜀の音楽が流れる中、司馬昭しばしょうが「蜀を思い出されますか?」と劉禅に尋ねたところ、「いいえ、ここは安楽で、蜀を思い出す事はもはやありません」と答え、蜀の将だけでなく列席していた他の将たちも唖然としたとあります。

これも劉禅の暗愚を象徴するようなエピソードではありますが、実際魏を簒奪して晋を築く下地を作った司馬昭という狡猾こうこつで抜け目のない人物の前で、蜀の皇帝であった劉禅が迂闊うかつな発言をするわけにいかず、何も考えていないふりをしたとも言われているようです。

まとめ

陳寿ちんじゅは「白糸は染められるまま何色にも変ず」と劉禅を評しました。

つまり、部下が有能であれば名君に、無能であれば暗君になるということです。

実際、諸葛亮や董允らが存命のうちは彼らの言を聞き入れ、みだりに改元や恩赦を行うことなく政治を行っていましたが、彼らの死後重用した黄皓が台頭してからは、それまでのきちんとした政治は崩れてしまいました。

以上のことから、劉禅は良くも悪くも非常に素直な人柄で、その時彼の下についていた人物次第で良き君主にも暗愚な皇帝にもなる人物だったようですね。

父・劉備から引き継いだ弱小国・蜀を能ある部下とともに40年の長きに渡って存続させ、最後は悪しき部下を重用したために蜀を滅亡させてしまいましたが、劉禅その人は、単なる暗愚な皇帝というわけではなかったのではないでしょうか。

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