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最低最悪の暴君董卓は実はいい人だった?
董卓、字は仲頴。
三国志随一の悪役と言っても過言ではないでしょう、正史三国志を編纂した陳寿にも「董卓は心が歪んでおり残忍、暴虐非道。記録に残されている限り、恐らくここまでひどい人間はいないであろう」と酷評されています。
要するにこの時代までで、歴史上の人物でこれほどの悪人はいない、ということです。彼に比べれば、李傕と郭汜もかなりの悪人ですが、可愛く見えてしまう程です。
洛陽に入るや勝手に皇帝、少帝弁 劉辯を廃し、その弟、献帝 劉協を新たな皇帝に即位させるも傀儡として操り、実権は自らの手から離さず、民衆を虐げ、独裁政治を敷いたことで知られています。
欲望のままに暴飲暴食、肥満体であったとされ、良いイメージが全くと言っていいほど出てこない人物です。
そんな董卓ですが、若かりし頃や洛陽に招かれる以前、その直後について調べてみると、
意外な人物像が浮かび上がってくるのでした。今回はその辺りを紐解いていきたいと思います。
肥満体ではなく細マッチョ!男気に溢れていた若かりし頃
董卓の出生地は中国西北部の涼州、現在のウルグイ自治区の近くです。涼州と言えば馬騰のイメージが強いかもしれませんね。
そのため、董卓には異民族の血が混じっていたという説もあります。生まれつき腕力が強く、武芸に秀でており、馬に跨った状態で、馬上から左右両方の手を使って弓矢を射ることができたのだそうです。流鏑馬を左右両方でできるということですね、並大抵の身体能力ではなかったことが伺えますね。黄忠も真っ青かも?
董卓は殺された後、「董卓の遺体のへそに芯を立て、ロウソクのように火を灯したところ、三日三晩燃え続けた」、「暑い日だったので、遺体から脂が溶け出していた」などと言い伝えられているため、肥満体のイメージが強く残っていると思います。
董卓
しかし、この頃は細身の筋肉質の肉体で、馬にひらりと乗れる程乗馬が得意でした、いわゆる細マッチョですね!
怖気づかない性格と秀でた武芸の強さを見込まれ、将校に取り立てられます。その後、数々の戦いで大いに活躍し、実績を積んでいきます。
遊牧民族・羌族の当主から尊敬を集める
この頃の董卓は、異民族である羌族が住んでいる西涼を放浪して周り、各地に住んでいる羌族の頭領と親交を結びます。
当時の漢民族は羌族を野蛮人扱いしており、まともに付き合うことがなかったと言われています。その時代に羌族と交流していた董卓は、差別意識や偏見とは全く無縁の感覚を持ち合わせていたと思われます。器の大きな男ですね。
そして郷里に帰って農耕に励みながら暮らしていたある日、羌族の頭領たちが董卓の家を訪れます。しかし当時董卓の家は大変貧しく、彼らをもてなす用意ができませんでした。悩んだ董卓は農耕用の牛を殺し、その肉で宴会を開き、もてなしました。
差別しないだけでなく、自分が出来る限りのもてなしをした董卓に、頭領たちは大いに感激し、領地に帰ったあと、董卓に1000頭もの耕牛や酒をを贈りました。
このように若い頃は洛陽や長安で行ったような暴虐で悪い事をしているイメージとはかけ離れた、大変人望を得ていた人物でした。
反乱軍を平定し名言を残す!
韓遂らが反乱を起こした際、自ら軍勢を率いて彼らの反乱を平定し、朝廷から褒められます。
その後、郡の役人となった董卓は、盗賊の取締を行います。胡(北部・西部の異民族)が侵入して略奪をし、住民たちを拉致したことがありました。その時、董卓は騎兵を率い、胡の討伐に出向いて大勝します。4桁にも上る胡を斬る、もしくは捕虜にしたと言われています。
武勇に優れた董卓は順調に出世していき、名声をあげます。そんなある日西方の漢陽郡で羌族が大規模な反乱を起こします。それを鎮めるため出陣し、今度は1万人余りを斬る、もしくは捕虜にするという圧勝にて平定しています。
朝廷は反乱鎮圧で実績を上げている董卓を報奨し、9000の絹織物を与えます。しかし董卓は「為すはすなわち己なるも有するはすなわち士なり(この手柄は俺が挙げたが、褒美はみんながもらうべきだ)」と言って、すべて部下たちに分け与えてしまいました。
董卓
貧しい暮らしも経験し、一兵卒の辛さも味わっている董卓だからこそ、部下に対しても優しさを示すことができたのでしょう。彼の部下は董卓の思いやりのある言葉を聞き、大いに感激し、泣き出す将校までいる程でした。
このように、若いころの董卓は残虐非道という言葉とは無縁、気前の良さや侠気あふれる心遣いによって、大いに人望を得ていた人物でした。
いわれなき差別のせい?暴君へと化す
大いに人望を得ていた董卓、そんな董卓がなぜ暴君へと変貌を遂げてしまったのでしょうか?
洛陽に入った当初は世の人士たちを招聘し、善政をしこうと努力していました。人事権を漢王室の臣に委任するなど、漢王室を尊重していますので、独裁する意思がないと取れますし、影響力が弱まってしまった漢王朝を立て直そうと尽力もしています。
少帝弁を廃位し、弟の献帝を即位させたことに反発した袁紹を、当初は殺害しようとしました。しかし名門である袁家の影響を恐れ、役職を与えるという懐柔策を取っています。
董卓はへりくだった対応をし続けましたが、周囲は董卓に対して反発を強めるばかりでした。それは董卓の出自が名門とは言い難い、当時の感覚で言うと、卑しい身分であったことが挙げられるでしょう。
董卓に引き立てられた文官達の多くも、董卓に対して反抗的でした。異民族とも分け隔てなく付き合っていた董卓からしたら、出自の違いにより虐げられるなど、理解の範疇を超えたものだったのではないでしょうか。
気のいい大将であった董卓が独裁的な恐怖政治へシフトしてしまったのは、こうした身分差別に対する憤りが背景にあったのかもしれません。
それ以降、董卓は暴君へと変貌してしまいました。自分の身内に高い爵位を与えて重要したり、外出の際に皇帝専用の馬車を乗り回したり、歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れるなどの暴政を行うようになりました。
董卓
富豪を襲って金品を奪う、祭りに参加していた村人を皆殺しにするなど、民衆をも虐げるようになります。
これに反発した各地の豪族や有志たちが董卓討伐の兵を起こします。いわゆる反董卓軍連合ですね、これを迎え撃ちますが、形勢不利となって長安に撤退。洛陽を焼き払ってしまうのでした。
酒池肉林、も某大人気格闘ゲームの影響が強いと思われますが、実際に長安への遷都を果たした後、長安の西に郿城という巨大な城を築き、そこに二十年分の食糧を納入。美女に囲まれて、酒池肉林、放蕩三昧の日々を送っていたようです。
暴虐非道の限りを尽くした事実は消えず…
洛陽に入った時を境に、まるで別人のように変わってしまった董卓。前述した身分による差別以外にも、良心を捨てざるを得ない何かがその身に降りかかったのかもしれません。
ですが悪政を敷き、暴虐非道の限りを尽くしたことは紛れもない事実。その罪は許されるわけはなく、庇う事さえ不可能であり、いい人だとはもちろん言えません。
ただ、三国志随一の暴君も、当初は善政を敷こうと尽力していました。人の子らしい側面もあったのではないでしょうか。もし、董卓の良心を奪う何かがあったとして、その何かが起きていなければ、もしかしたら名君として洛陽に君臨していたかもしれませんね。
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