公孫瓚が袁紹に負けたのはなぜ? 騎馬隊はどれくらい強かったの?

公孫瓚は、後漢末期に中国北東部の幽州で覇を唱えた武将です。三国志のゲームをプレイした方のなかには幽州の「太守」的なイメージを抱いている方もおられるかもしれませんが、公孫瓚は朝廷から太守や刺史に任じられていたわけではなく、軍事力を背景として河北で台頭した人物です。

また、反董卓連合に加入したという話も演義の創作です。

出自

 公孫瓚は、有力な豪族の家に生まれたものの、母親の身分が低かったために大事にされませんでしたが、聡明で容姿も優れていて武芸もできたため、太守の候氏からこわれて婿養子に入ります。

そこで涿郡の盧植の下で経書・兵学を学ぶ機会に恵まれ、この時の学友が蜀漢を建国した劉備玄徳です。やがて孝廉に推挙された公孫瓚は遼東属国長史となり異民族と対峙することになります。

彼は異民族との戦いにおいて白馬にまたがって勇敢に戦ったため、異民族の間で「白馬将軍」と恐れられることになります。

劉虞と不仲だった公孫瓚

 中平2年(185年)、涼州で韓遂らが反乱を起こした際、公孫瓚は討伐軍の援軍の任を受けるのですが、かねてよりその任を希望していた張純はこの人事に不満を抱き、張挙や烏丸の丘力居らと結んで反乱を起こし、公孫瓚はその鎮圧にあたることになります。

朝廷は事態を収めるために中平5年(188年)に劉虞を幽州牧に任じました。

劉虞は丘力居を懐柔して張純との離間を画策するのですが、対異民族強硬派の公孫瓚の目には異民族の懐柔は異民族が漢を軽んじることにつながると映り、懐柔策が成就しないよう妨害工作を続けます。この時から公孫瓚と劉虞の対立が始まり、やがて公孫瓚の滅亡の一因となっていきます。

最終的にはこの離間の計は成就し、劉虞は張純の乱を鎮めた功績で昇進しましたが、公孫瓚としては自身の功績を奪われることに危機感を抱いていました。

白馬義従

 公孫瓚は、張純の乱の鎮圧後、配下のなかから弓の技術に優れた者を数十人集めて白馬義従という騎馬軍団を結成しました。「義従」とは弓騎兵のことです。公孫瓚とともに異民族との戦いを生き抜いた配下との間には強固な絆が生じていたとも考えられます。

以後、公孫瓚の戦いにおいては白馬義従が大活躍し、その勇名を轟かせることになります。ただ、名が知られることは同時に、研究されやすくなるという負の側面も生じてしまいます。

公孫瓚と袁紹の対立

初平2年(191年)、公孫瓚は渤海から侵入した黄巾賊の残党の鎮圧にあたるのですが、この頃になると、豫州をめぐり袁紹・袁術兄弟が対立を深めており、河北で袁紹と対峙する公孫瓚は袁術に与していましたが、袁術の指示で袁紹の勢力と戦った公孫越(公孫瓚の弟)が戦死してしまいます。

これに激怒した公孫瓚は袁紹を攻め、やがて河北の覇権を賭けた界橋の戦いに至ります。
 公孫瓚は、中央を歩兵で固め、その両脇に騎兵を配置する布陣で、袁紹配下の麹義率いる800の先鋒に向かって突撃をかけます。公孫瓚としては、わずか800の先陣など蹴散らしてくれるといったところだったかもしれませんが、涼州出身の麹義は異民族の戦い方を熟知していました。

彼は屈強な歩兵によって白馬義従を食い止めてその機動力を抑えた上で、あらかじめ伏せておいた白馬義従よりも射程の長い強弩兵に一斉射撃を命じました。これによって、公孫瓚が誇る白馬義従は壊滅し、その後紆余曲折はありましたが、最終的には河北の覇権を諦めて薊に退却せざるを得なくなりました。

白馬義従に突撃させることを敵が予見していることに気付いた上で、その裏をかくことができればまた違った展開になっていたかもしれません。

劉虞を殺害

 かねてより公孫瓚と対立していた劉虞は、このタイミングで異民族と結んで公孫瓚を滅ぼそうとしますが、情報が公孫瓚のもとに漏れたことで逆に奇襲を受けて敗北します。

劉虞を捕えた公孫瓚は、「劉虞は皇帝を僭称しようとしている」という罪をでっちあげて劉虞とその一族を処刑して幽州を勢力下に収めますが、人望が厚かった劉虞を処刑したことで人心が離れ、以後、劉虞旧臣と異民族に加え、さらに袁紹からの攻撃にもさらされ、ついに易京に追いつめられることになります。

名士の登用に消極的でもあったため、落ち目になった公孫瓚に対する名士層らの不満も噴出しています。

公孫瓚の最期

籠城戦突入後も袁紹からの降伏勧告を無視して軍備増強しつつ城を守り続けるのですが、ある日の戦いで、公孫瓚は味方が敵に包囲されているのを知りながら援軍を送らないという決断をしてしまいます。

「援軍は来ないと理解させることが、その後の戦いでの味方の奮起につながる」と彼なりに考えた末の決断だったようですが、これによって味方の将兵らの戦闘意欲が大いに削がれてしまいました。

199年、最後は地下道を掘り進めた袁紹軍がそこから城内に侵入して落城。公孫瓚は妻子を刺し殺した上で自らも自害しました。こうして河北の覇権を握った袁紹は、意気揚々と翌年からの曹操との戦いに臨むことになるのです。

 公孫瓚が袁紹に負けた原因は、白馬義従の戦い方を工夫できなかった戦術面での失敗と、劉虞を処刑したことによる人心の離反にあるといえるのではないでしょうか。

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