Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

袁術は有能か無能か?名門の袁家ってどんなとこなの?

Pocket

袁術は有能か無能か?孝廉に推挙された人格者の一面

袁術えんじゅつ汝南じょなんの名家・袁家に生まれた後漢末期の武将です。
官渡かんとの戦いで曹操そうそうと戦った袁紹えんしょうのいとこ・または異母兄弟にあたります。

名門・袁家の御曹司おんぞうしでありながら、青年期は仲間たちと放蕩ほうとう生活を送っていましたが、後に改心し、名門の子息であることから孝廉に推挙されて郎中ろうじゅうに就任します。

孝廉こうれんに推挙されたということは、父母への孝養こうようを尽くし、さまざまな物事に対して廉正れんせいな態度で臨むことができる人物であると評価されたということになります。
青年期の袁術は、どちらかというと親孝行で人格者であるという周囲からの評価だったようですね。

嫉妬深く豪奢な生活を好む野心家


父母への孝養の心があつく、物事への廉正な態度を以って孝廉に推挙された袁術ですが、自分が袁家の嫡男ちゃくなんであるという強い自負と気位の高さがあったようです。

謙虚で快活だった同族の袁紹が自分よりも声望が高く、許攸や何顒といった名士たちが袁紹とばかり交流していたことを妬み、彼の出自の低さを度々槍玉にあげては中傷し、袁紹とよく交流があった何顒らを憎んでいたようです。
また、長水校尉ちょうすいこういになる際には性格が横柄で、移動の際は豪華な馬車によく乗っており、「路中捍鬼袁長水ろちゅうかんきえんちょうすい」(鬼のように荒々しく忙しく道を行く袁長水)と呼ばれていたそうです。

袁術

うおおおおおおお!!!ワシは名門・袁家の嫡男袁術様であるぞおおおおおおおおおお!!
Sponsored Links

反董卓連合にも加勢しますが、その最中に自分に害が及ぶのを恐れて荊州けいしゅう南陽なんように逃れます。
逃れた南陽で、長沙太守ちょうさたいしゅだった孫堅そんけんが当時の南陽太守だった張咨ちょうしを殺害したため、その後釜に座る形で南陽郡を支配し、孫堅をもその影響下に置きます。

孫堅を豫州刺史よしゅうししに任じて董卓を攻撃させ、191年に陽人の戦いで孫堅との連合軍で董卓軍を破り、4月には洛陽らくようを占領する戦果を挙げます。

孫堅を豫州刺史の座に就かせた袁術ですが、袁紹はそれを無視する形で周昻しゅうこう(あるいは周喁)を豫州刺史に任命し、孫堅の陣地を攻撃させました。

それに対して袁術は孫堅への援軍として、以前袁術の歓心を買おうとした公孫瓚こうそんさんに提供された公孫越こうそんえつの軍を派遣しますが、敗戦の上公孫越も戦死してしまいます。

その後、長安に入った李傕りかくが袁術を味方につけようと左将軍・陽翟侯ようてきこうに袁術を任命すると、その使者を抑留し、部下だった孫策そんさく朱治しゅちにも強引に官職を与えるなどしたようです。

南陽太守として人口も多く豊かだった南陽郡を支配していた袁術ですが、豪奢ごうしゃな生活を好んだため民への税が重くなり、南陽の民は重い徴税に非常に苦しむことになってしまいました。

袁術の大きな過ち

195年、献帝けんていが長安から這う這うの体で逃げ出し、曹陽そんようで大敗し明日をも知れない状態になったと聞くと、「漢帝国の命脈は尽きた」と側近たちに帝位に就く意思を漏らしていましたが、その時は側近たちに押し留められて帝位に就くことを渋々断念しています。

しかし皇帝という地位を諦めたわけではなく、翌々年の197年正月に張炯ちょうかいの進言を取り上げ、寿春を都として『ちゅう』という国の皇帝に即位しました。

袁術

皇帝もすでに死にかけ、ここは名門の袁家の嫡男であるワシが皇帝に即位するべき!!!!

仲の皇帝として即位した袁術ですが、当然大半の諸侯から承認を受けられず、また袁術自身も私欲が強く豪奢な生活を追求したため、ここでも民への重い徴税を行いました。
結果、重税にあえぐ民や兵士は飢えに苦しみ、彼らは反感を募らせていきます。

この自己中心的な暴政に、民や兵士だけでなく家臣の心も離れていってしまいます。
仲は度重なる敗戦と悪政に飢饉が重なり、どんどんと衰えていきます。

その最期も、病を得て灊山せんざんにいた雷薄と陳蘭を頼ろうとしますが拒絶され、江亭でわずかな麦くずしか残っていない食糧難の状態の中で絶望の言葉とともに一斗あまりの血を吐いて死ぬという、自業自得とはいえ寂しいものだったようです。

袁術

うぬぬぬぅ!!この袁術とあろうものがこんな仕打ちを受けるとわああ!!あのにっくき曹操め呪ってくれる!!!

以上のことから、青年期には忠孝の心の篤い人間だと言われていたようですが、袁術の本質はプライドが高く他人を見下しがちで自己中心的な人物であったようですね。
南陽郡を支配したことや曹操と袁紹が敵対することを予見するなど、天下の分析に関しては有能だったようですが、その性格が災いして為政者いせいしゃとしては有能とは言えないようです。

Sponsored Links

名門の袁家ってどんなとこなの?


袁紹や袁術らを輩出した汝南の袁家は、後漢前期からその名前が高くなる地方名士の家系でした。

袁家の名門としての礎を築いた袁安えんあんの祖父・袁良えんりょう孟子もうしの易を学んだ儒者であり、前漢末期の平帝へいていのときに太子舎人たいしとじん、後漢を興した光武帝こうぶていのときには成武県令せいじょうけんれいにまで上り、地方名士の家系の始まりとし、後漢の明帝めいていからその次の章帝しょうていの時代に袁安によって礎が築かれました。

袁安により築かれた『名門』の礎

この袁安も祖父・袁良と同じく家学である孟子の易を学び、後漢の第2代皇帝・明帝のときに孝廉に推挙されて県令を歴任、郡太守を経て首都・洛陽の行政長官である河南尹かなんいに出世し、厳明かつ寛大な善政を行いました。次の章帝のときには朝廷の最高位である三公のひとつ、司空に任ぜられたのち司徒に転任します。

章帝の死後、幼い和帝わていが帝位に就くと、その外戚の一族の専横に真っ向から反対します。以降100年余りにわたって汝南袁氏の清流名門貴族としての地位は、袁安の清廉潔白な行いと儒学を修めた清流派官僚としての高い評価に由来するものだったようですね。

『名門・汝南袁氏』の盛衰せいすい


汝南袁氏の高い評判は袁安ひとりだけのものではなく、その息子である袁京えんきん袁敞えんしょうの兄弟やさらにその子供たちの出世にも裏打ちされています。

兄・袁京は侍中からしょく郡太守、弟の袁敞は東郡太守から太僕たいぼく光禄勲こうろくくんを経て最終的に司空にまで上ります。

袁京の子である袁湯えんとうは袁紹と袁術の祖父にあたり、彼は袁安の孫の世代で最も高位の三公にまで上りました。袁湯の代で一度汝南袁氏は衰退しますが、その子である袁逢えんほうが早世した兄・袁成えんせいにかわって家督を継いでから汝南袁氏の権勢は最高潮に達します。

袁逢は名門・袁氏の跡取りとして朝廷で重用され、霊帝のときには太僕から三公の司空にのぼります。その弟である袁隗えんかいも若いころから顕官けんかんを歴任して兄より早く三公の司徒にのぼり、霊帝れいていの次男・献帝が即位したときに朝廷最高位の名誉職・太傅たいふに就きました。

袁術

袁家は四世三公の名門、その嫡男であるワシは天から選ばれた人間である!!

袁逢の死後、家督を継いだ袁逢の息子・袁基えんきも太僕に就いていましたが、黄巾の乱の平定後に専横を始めた董卓に袁基のいとこの袁紹と袁基の弟・袁術が反抗して挙兵したため、洛陽にいた汝南袁氏の一族二十数名はことごとく殺害されたため、中央貴族としての汝南袁氏は消滅してしまいました。

三国志における袁家

中央貴族としての袁氏は消滅してしまいますが、後漢の動乱の中、汝南袁氏は袁紹や袁術によって地方軍閥として形成されていきます。

袁紹は父・袁成えんせいが最後まで宦官かんがんと手を結ばないまま死去したため、清流派名門としての名声が高く、若くして官職に就き、諸官を歴任したのちに司隷校尉しれいこういとなり、董卓が献帝を立てようとしたときに董卓のもとを離れて冀州きしゅうに逃れましたが、名門・袁家の力が一か所に集結することを恐れた董卓によって逃亡の罪を赦され、渤海ぼっかい太守に任ぜられます。

その後、曹操とともに結成した反董卓連合の盟主になりますが、連合の瓦解後には冀州に戻って牧となったのを最初に幽州ゆうしゅう并州へいしゅう青州せいしゅうをわずか数年のうちに手中に収め、官渡の戦いで大敗して没するまで華北かほく四州を支配する大勢力に上り詰めました。

一方の袁術は名門・袁氏の子息であることから孝廉に推挙され、その後河南尹から虎賁中郎将こふんちゅうろうじょうにのぼります。董卓が洛陽に入った後は南陽に逃れ、孫堅が殺害した張咨にかわって南陽太守に就任し、袁家の本来の地盤であった河南南部の勢力になります。

袁術はのちに仲の皇帝を名乗りますが病没しました。袁術の妻子は孫策に保護され、袁術の長男であった袁耀えんてきは孫権のもとで郎中ろうじゅうに、その娘は孫権の五男・孫奮そんふんに嫁ぎ、袁術の娘は孫権の妃嬪ひひんとなりました。

また、袁術自身の妹も弘農こうのう四世太尉しせいたいいの名門・楊氏ようし楊彪ようひょうに嫁いで楊修ようしゅうの生母となりました。

袁紹・袁術とその子孫の没落により、汝南の名門・袁家は一度表舞台から姿を消してしまいますが、その後も袁紹の次男・袁熙えんきの子孫である袁恕己えんどきが唐の中宗ちゅうそうのもとで宰相さいしょうを務めるなど、没落した後も傍系ぼうけいを含めた名門・汝南袁氏の血筋は脈々と受け継がれていったようですね。

名作”三国志 Three Kingdoms”を無料で視聴する方法

三国志は映画やドラマなどいろいろな作品がありますよね!

その中でも本場・中国で制作された”三国志 Three Kingdoms”は名作との呼び声が高く、管理人自身自信をもってお勧めできる三国志ドラマです。

実はYouTubeなどにもあるにはあるんですが、全部の話はなくとびとびの話しかなかったり違法行為なので運営から削除されて見れなくなったりしています。

ですが、FODプレミアムに登録すると”三国志 Three Kingdoms”の全話が見れて一か月以内に解約さえすれば料金は全くかからないんです。

 

\一か月無料プラス100p付き/

FODプレミアムで”三国志 Three Kingdoms”を無料で視聴する

◆◆◆◆◆こちらの記事も読まれています◆◆◆◆◆

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です