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誰もが知る呉の君主孫権!しかし晩年はヤバい暴君…
孫権、字は仲謀。
「三国志」の名の元にもなった、3つの国の一つ、呉。その呉の君主として君臨した孫権、もちろん非常に優れた英雄的人物であり、卓越したバランス感覚と人材掌握術を駆使して、曹操や劉備を手玉にとった、名君の一人と言って過言はないでしょう。
ただし、それはあくまで青年期から晩年になる前まで、の話です。晩年、孫権が58歳になった240年以降から、急に暴君へと変貌してしまうのです。
そう思う人も多くいるかもしれませんが、どうして暴君になってしまったのか?順を追って考えていきたいと思います。
孫権の心の隙間に入り込んだ男
孫権も歳を重ね、赤壁の戦いで活躍した英雄達も、そのほとんどが孫権を置いて先に逝ってしまいました。そして信頼していた息子、孫慮、彼も老いた孫権を残してあの世へ旅立ってしまいました。
息子を失い、ひどく心を痛めた孫権、その心の隙間にうまく入り込んだ男がいたのでした。その名は呂壱。一言で言えば「チクリ魔」、おべんちゃらが得意な茶坊主でした。私利私欲のために法を捻じ曲げ、賄賂を受け取り、ライバルに冤罪を着せたりする小者です。
仮の話として、学校の「廊下を走ってはいけません」というルール、もしそれを破って走った者がいたとします。普通なら「廊下を走ってはいけませんよ」と口頭で注意すれば済むところでしょう。
しかし、呂壱はまるでとんでもない罪を犯したかのように、「あいつ廊下を走っていました!即刻牢に入れるべきです!でないと他の者への示しがつきません!」と糾弾するような人物だったのです。
それだけならまだ「呂壱は真面目なヤツだな(極端だけど…)」くらいで済むかもしれませんが、呂壱は自分が嫌いな人の罪まであることないことでっち上げるようなとんでもない男でした。
あろうことか、孫権はこの男の耳障りの良いお世辞に騙され、重用してしまうのです。
呂壱
離れてしまった家臣達の心
皇太子、孫登や側近の重臣達は呂壱を退けるよう何度も諫めますが、孫権は意固地になって聞く耳を持ちません。
ついには現状を憂いた潘濬が自ら殺人の罪を被ってまで、呂壱の暗殺を目論見ます。
しかし、それに気付いて逃げてしまった呂壱。ですが潘濬に続けと言わんばかりに、孫登や諸葛瑾、陸遜をはじめとする家臣達が次々とその悪事の証拠を集めて孫権に上奏します。
家臣達の必死の諫言によってようやく真実に気付いた孫権は、それでやっと呂壱を処刑したのでした。
孫権は意地になって無下に扱った家臣達に申し訳なく思いながら、他に自分に誤りはないか、直すところはないかと尋ねて回りました。
しかし、この一件で既に重臣達の心は離れてしまっていました。もう孫権に対して有効なアドバイスをしてくれる者は誰一人いませんでした。
臣下
そこに追い打ちをかける更なる不幸が襲います。なんと皇太子、孫登が病気で亡くなってしまったのです。このことが後で説明する「後継者問題」に大きく影響します。さらに若い頃より呉に仕えていた功臣、諸葛瑾も亡くなってしまうのです。
孫権の心はますます弱っていったのでした。
最悪な後継者問題?二宮の変
どこでも後継者争いというのは大きな問題となります。
かつて袁紹の後継者を巡って長子の袁譚と三子の袁尚が争い、曹操につけ入られて滅んでいます。劉表の後継者を巡っても劉琦と劉琮が揉めています。曹操ですら後継者問題では揺れ動き、曹丕や曹植は骨肉の争いを演じました。
さて、孫権はどうだったのでしょうか。孫権は、長男の孫登を後継者に決めて、早くから英才教育を施していました。その甲斐あって、孫登は優秀で立派な人物に育ったのです。ところが、この愛児が病死してしまったことで、跡目争いの幕が切って落とされたのでした。
孫権
孫登は亡くなる最期の時まで呉を想っており、「私の死後は弟の孫和を皇太子としてください」という遺書を残しています。その遺言通りに孫権は、孫和を皇太子として立てますが、その弟の孫覇を皇太子にしたいと考えた臣下達が暗躍します。
要するに利権を狙う豪族達がそれぞれ孫和、孫覇を取り込んで、どろどろの暗闘を繰り返していったのです。最悪だったのは孫権が優柔不断な態度を取ったこと。
孫権の大暴走
最初は遺言通り孫和を皇太子として立てたのに、溺愛していた娘、全公主こと孫魯班が孫覇派についたため、この娘にたぶらかされてコロっと態度を変え、孫覇を皇太子に擁立しようと考え始めたのです。
気骨のある群臣たちは、みんな孫和支持に回りました。「長幼のケジメ」もさりながら、客観的に見て三男の方が優秀だったんでしょう。それに孫登の遺言もあります。
ですが何と、孫権は激怒し、事もあろうに、この忠臣たちを片っ端から殺したり島流しにしてしまうのです。張昭や顧雍の子孫達も例外ではありませんでした。
あの名将、陸遜は、この後継者問題を憂い、「皇太子を後継者に決定すればこのおろかな争いを鎮めることが、できるのではないのでしょうか。」と進言するのですが、それを読んで孫権は不機嫌になり、無視します。
それを知った孫覇派の家臣が孫権に陸遜の讒言を行うのです。それを聞いて大激怒した孫権、詰問の使者を送ります。毎日のようにネチネチと詰問された陸遜は、心労のあまり憤死してしまいました。
陸遜
それ以外にも、粛清された忠臣の数は、数百人にも及びました。『正史』を読んでいると、この事件で惨めな最期を遂げた人の多さに本当に驚かされます。呉が誇る人材層は、このつまらない争いによって壊滅状態になったのです。
結局、孫権は孫和から皇太子の位を剥奪、孫覇には自害を命ずるというとんでもない決断を下したのでした。この件に関わった両陣営の臣たちも無実の者を含めて次々処刑。
皇太子には7歳の孫亮が立てられ、二宮の変と称されるお家騒動はようやく終結を迎えました。
そしてそれから数年後に71歳で病没したのです…。
どうして孫権は暴君へと豹変してしまったのか?
元々孫権は感情の濃度が異常に濃い人物です、虎狩りにハマったり、部下たちに無理矢理酒を飲ませたり、有名?な虞翻殺害未遂事件で「自分が酒を飲んでから出した命令は無効」指示を出している程です。
巨大戦艦で大ハッスルしたり、酒池肉林も行っており、キレて家に引きこもった張昭に逆ギレし、張昭宅へ火をつけたこともあります。
かなり暴君の素質が垣間見えると言えるでしょう。
若き日の孫権は、周囲に気を遣っていろいろと我慢していたのだと思います。こうして溜まったストレスを、深酒や虎狩りで晴らしていたのかもしれません。それに頑固オヤジの張昭がお目付け役として君臨していたので、あまりワガママなことも出来ませんでした。
ところが、最高位の皇帝になってしまった上、ストッパーの張昭も亡くなってしまいました。それで散々我慢した反動が噴出してしまったのかもしれません。
人間は、歳を取ると精神の弾力が失われ、自制心が衰え、思考が硬直化する傾向があります。孫権のように若い頃は優秀だった人物になると、己の過去の成功体験を絶対視してしまい、「俺に逆らう若い奴らは、みんなバカだ」という思い込みに容易に捉われてしまいます。
「麒麟も老いれば駄馬にも劣る」
孫権もこの言葉通りになってしまったのかもしれませんね。
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