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徐庶ってどんな人?母親想いで情に厚く義理堅い人
徐庶、字は元直。
元の名は徐福で、水鏡先生こと司馬徽の門下生です。単家(たんか、あるいはぜんかと読み、権勢のない家柄、或いは寒門の意味)の出身であり、そのことから「単福(ぜんふく)」という偽名を名乗っていたこともあります。
情に厚く義理堅い人物であり、友人の敵討ちに付き合い、その末に友人を逃し、一人投獄されてしまったという逸話も残っています。母親想いでもあり、劉備に仕えていましたが、母親が曹操軍に捕らわれたと知ると、やむなく魏へ下りました。
劉備軍に軍師の大切さを教え、諸葛亮と引き合わせた人物でもあります。
劉備軍が初めて迎えた軍師
劉備軍には関羽、張飛、趙雲を筆頭に、数多く優れた武将がいましたが、軍師がいなかったために、あまりぱっとしませんでした。
曹操に追われて荊州に逃れた劉備は、劉表の下に身を寄せることとなり、新野に駐屯します。そこで劉備は、劉表配下の重臣である蔡瑁に命を狙われてしまいます。的盧にまたがった劉備は、壇渓を越え、何とか蔡瑁の暗殺計画から逃れることができ、名士・司馬徽の邸宅に身を隠しました。そこで徐庶は劉備と出会います。
徐庶は「的盧は馬主に祟る凶馬だが、それを避ける方法がある」と提案します。
劉備が興味を持ってその話を聞くと、徐庶は「まず他人に乗せて、災いがあった後に乗るようにすれば祟られることはない」と伝えます。すると劉備はそんなことができるわけがない、と激昂します。その様子を見た徐庶は劉備の仁徳を知り、仕官することになるのです。
曹操軍は劉備を倒すために、荊州に侵攻してきます。兵力も曹操軍に対して圧倒的に少なく、不利な状況なのですが、ここで驚くべき活躍を見せるのが軍師である徐庶でした。
曹操軍の総大将、曹仁は、まず呂廣と呂翔を先鋒として5,000の兵をもって出撃させます。それを2,000の兵で難なく撃退、呂廣は趙雲に、呂翔は張飛にそれぞれ打ち取られます。
報復と称して怒った曹仁が李典と共に、本体を率いて25,000の兵で襲い掛かります。しかもこの時、「八門金鎖の陣」という物凄く強そうな陣を布いてくるのです。しかし、知らない方が幸せということなのか、劉備をはじめ、関羽、張飛、趙雲はこの陣の恐ろしさを知りません。ただ、この陣形の弱点までも知っていた徐庶は見事に打ち破り、完膚無きまでに叩き伏せ、逆に曹仁の本拠地の樊城を奪うのでした。
こうして劉備軍に軍師の重要さを示すこととなります。
伏龍こと諸葛亮孔明登場の引き立て役?
中原が乱れた時に荊州へ移住し、司馬徽の門下生となりますが、この時に諸葛亮と特に親しくなっています。
劉備の自分を犠牲にしてでも、人のために尽くす人柄を大変気に入っていた徐庶は、近くに来たことを機に諸葛亮を推薦します。 劉備が徐庶に呼びに行かせようとすると、「彼は、こちらから行けば会えますが、無理に連れて来る事はできません」と伝えます。こうして、劉備は「三顧の礼」で諸葛亮を迎え入れることとなります。
しかしその後、徐庶はあっという間に退場していきます。徐庶という軍師がいるだけで劉備軍は無敵なのではと思わせる程の強さになったのに、さらにそれより凄い、伏龍と呼ばれ、鳳雛とそのどちらかを得れば天下を握れるとまで言われた男が加わると、一体どれ程強くなってしまうのか、期待は大変膨らみます。
その高いハードルを問題なく、さらに高いレベルで超えていく諸葛亮、まさに真打登場、最強軍師の登場の布石、引き立て役のような役割です。
さて、伏龍と鳳雛、どちらかを得れば天下を握れると言われた男を両方共手に入れておきながら、天下を握れなかった男のことは、ここでは触れないでおきましょう(笑)
母親のために魏へ下る
この後、徐庶は泣く泣く劉備の下を離れて魏へ下るのですが、それは母親が理由です。しかし、正史と演技では内容が全く違うのです。
演技では曹仁と李典を破った徐庶のことが気になって仕方がない曹操は、程昱の計略によって、徐庶を手に入れることとなります。
それは徐庶の母親想いであるということを利用し、母が許都の近くに住んでいることから、手厚く保護して、曹操に帰順するよう手紙を書いてもらう作戦でした。
しかし、徐庶の母はその手紙を書くことに激しく反発します。なので程昱は作戦を変更し、徐庶の母に特別に親切に接するよう配下に命じました。仁義に厚い徐庶の母ですから、いくら拉致されたとはいえども、他人に親切にされるのは嬉しいものです。なので何通か曹操に宛てて、お礼の手紙を出すようになりました。
そこで程昱はこの手紙を集め、人の字を真似るのが得意な部下に命令し、筆跡を完璧にコピーし、偽造の手紙を作成するのです。その偽造の手紙にまんまと騙されてしまった徐庶は泣く泣く劉備の下を離れるのでした。
正史では長坂の戦いで曹操軍に捕まったとされています。そのためやむなく魏へ下ったとされており、母共々厚遇されています。
正史での活躍や出世は?
徐庶は演技では劉備軍初めての軍師として曹仁軍を撃破し、母親を人質に取られたため泣く泣く劉備の下を離れ、曹操の部下になります。そして劉備に対する義理から、曹操のためには働かないことを誓い、その才能を封印します。
しかし、正史の方ではその半分以上が記載なく、ほとんど虚構であると言われていますが、果たしてどうなのでしょうか。
諸葛亮を劉備に推薦したのは事実のようです、ですが推薦しただけで三顧の礼のきっかけになったかどうかは不明です。母親を人質に取られたために曹操に降ったのも事実のようです。ですがこれも「泣く泣く曹操についた」のではなく、「仕方なく投降した」くらいのあっさりした話であり、そもそも劉備に正式に仕えていたのか、単に客将扱いだったのかも不明です。
戦闘で活躍した記載もなく、華々しい戦績も伝わっていません。そもそも軍師なのか、武将なのかも不明で、よって軍師として有能であったのかも不明なのです。
魏での徐庶は右中郎将・御史中丞を歴任しています。決して低い官位ではありませんが、諸葛亮が北伐時に徐庶の官位を知ると、「徐庶ほどの人物でさえその位に留まるとは、魏にはなんと(有能な)人材の多いことよ」と嘆いたと言われています。
元劉備軍だったことによる不興を買わないために、わざと低い官位に留まったともいう説もあります。ただ、高官として厚遇されていたのは事実のようで、最後にはかなりの高官職にまで上り詰めたらしいです。庶民階級の出の人間が、何もしないで高官に出世することはないと思いますので、戦争で華々しく活躍はしていないものの、有能な官僚としてかなりの努力をしたのではないでしょうか。
最期の死因は?
演技では母親は自殺していますが、正史ではそのまま母親と共に魏で過ごし、諸葛亮没年と同じ頃まで長生きし、同じ頃に病死したといわれています。
徐庶ほど、演技で良くも悪くも大きく脚色された人物は少ないでしょう。
この戦乱の時代に、親と共に過ごし、安泰な出世街道を歩み、病死とはいえ、天寿をまっとうしたと言える程の年齢まで生きた。これはこれで非常に凄いことではないでしょうか。
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