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高順ってどんな人?張遼と並ぶ呂布軍屈指の名将で清廉潔白という言葉がぴったりな人
高順、字はわかっておりません。
あまり有名ではなく、マイナーな武将ではありますが、あの有名で人気もある、泣く子も黙る張遼と双璧と呼ばれた程の名将なのです。
寡黙で僅かな酒も飲まず、贈り物の類も一切受け取りませんでした。部下は700人でしたが、鎧兜や武具はいずれもよく精錬されていました。まさに「清廉潔白」の言葉が相応しい人物です。
攻撃した敵を必ず打ち破る猛将だったため、高順の部隊は「陥陣営(かんじんえい)」と呼ばれ恐れられていました。
二度の養父殺し、馬のために丁原を殺し、女のために董卓を殺した主君呂布とはまるで正反対ですね。呂布の配下になった経緯は不明なのですが、何故仕官していたのでしょう。
郝萌の反乱を鎮圧
呂布が劉備の徐州を乗っ取り、下邳を占領していた頃、呂布軍の武将、郝萌(かくぼう)が突如反旗を翻し、襲撃します。呂布は襲撃者が誰か分からないまま、頭巾も被らず着物をはだけ、妻の手を引きながら廁の天井から壁をこじ開けて脱出し、高順の兵営に逃げ込みました。
高順は「将軍、意中の者がありますか?」と尋ねたところ、呂布は「河内訛があった」と答ると、郝萌であると確信します。高順は即座に郝萌隊に向けて弓矢の一斉射撃を浴びせ、潰走させ、郝萌は逃げる途中に、部下の曹性に裏切られ、腕を切り落されてしまい、追撃してきた高順に首を刎ねられます。
この反乱には袁術と呂布軍の参謀、陳宮が関わっていたと言われておりますが、高順は呂布を守りつつ、反乱を鎮圧したのです。
しかし、この高順の見事な手際が、呂布が高順を警戒し、敬遠するきっかけとなってしまいます。助けられたのに、反乱を瞬時に鎮圧した見事な手際に嫉妬するというのも、呂布の器の小ささを物語っています…。
張遼を率いて劉備を攻撃し妻子を捕える
高順は中郎将として、張遼を率いて小沛の劉備を攻撃します。なのでこの時は高順の方が位が上で、張遼の上司なのです。
劉備の立て籠る沛城を攻め落して首尾よく劉備の妻子を捕えます。劉備は、妻子を放り出して命からがら曹操を頼って亡命します。
さらになんとこの時には、劉備の救援に駆けつけた夏侯惇をも追い払っているのです。あの夏侯惇をも、と強くアピールしたいのですが、このサイトでも実は夏侯惇は弱かった疑惑が上がっておりますので、そこはあまり強くは推しません(笑)
全然言う事を聞いてくれない主君呂布
呂布は高順の忠誠ぶりを大変高く評価していましたが、その一方で進言を取り入れることはほとんどありません。
臧覇の一件もそうなのですが、開陽に駐屯中の臧覇が、琅邪国相の蕭建を撃ち破って莒を占領すると、このとき既に蕭建を味方に取り込んでいた呂布は、怒って臧覇を攻撃しようとします。
高順はこの時、「董卓誅殺の威光を活かして周囲を帰服させるべきであり、軽々しく軍を動かして敗北すれば名声を損ないます」、「座して待てば臧覇は降ります」と呂布に進言しますが、呂布はそれを聞き容れずに臧覇を攻撃します。しかし撃退されて下邳へ引き返し、結局、後に呂布と臧覇は和睦しています。
結果的に高順の助言が正しかったことが証明されています。
このように陳宮のケースと同様に、呂布は高順を武将としては評価しつつも、その助言には耳をかさないという態度を取り続けます。
しかも血縁のある魏続に、高順が率いた兵をことごとく奪って与えて、戦いの時だけわざと高順に魏続の配下の兵を指揮させるというかなり屈辱的な扱いをしております。ですがそれでも高順は恨みがましい気持ちを全く抱かずに、一言も恨み言を発しませんでした。
本当に素晴らしい人格の持ち主なのですが、今後の結末を思うと逆にこのような上司相手には黙っていてはいけない、少しは文句を言った方がよかったのかもしれません…。
最後の死因は?曹操が登用しなかった理由とは
高順は劉備の妻子を捕らえるなどの活躍をしましたが、その結果、劉備を受け入れた曹操に攻め込まれてしまいます。
高順や張遼は善戦しましたが、高順は陳宮との深刻な対立もあり、妻にそれを理由に陳宮の策を取りやめるよう進言されるなどもあり、結果籠城の形になります。
当初は攻めあぐんだ曹操ですが、荀攸・郭嘉の計を用いて水攻めにし、ついに呂布、陳宮らと共に高順も生け捕りにされてしまいました。高順はこの二人と共にさらし首にされて許に送られ、後に埋葬されました。
有能な人材が大好きな曹操のこと、有能であればたとえ親殺しであっても登用するような男が、何故高順を配下に迎え入れなかったのでしょうか。現に張遼や臧覇はその後曹操に降り出世しています。張遼の活躍は説明するまでもない程有名でしょう。
それは曹操が迎え入れなかったのではなく、陳宮と同様に高順の方が受け入れなかったのではないでしょうか。曹操もきっと高順を迎え入れたかったと思います。
高順の清廉潔白さは死の直前でも垣間見えており、呂布や陳宮と同様に曹操の面前に引きずりだされた時も、一切の抵抗や命乞いをせず、呂布に殉じたと言われています。主君の呂布とはあまりにも対照的で、命乞いをしたり、死ぬ直前まで曹操を罵っており、張遼にも黙ってさっさと死ね的なことを言われているくらいです。
劉備が益州攻略時に、次々とその最強の人徳で劉璋配下を仲間にしていきましたが、唯一「二君に仕えるつもりはない」と言って斬首を選んだ張任のように、高順も二君に仕えるつもりはなかったのでしょう。
しかし、高順の紹介をすると必然的に呂布を下げる内容になってしまいますね(笑)
呂布軍で双璧と呼ばれた張遼との違いは?
呂布軍で有名な武将と言えば、大体の人が張遼と陳宮を上げると思います。その呂布軍には「八健将」と呼ばれる勇将達がいました。同じようなまとめ方に蜀の「五虎大将軍」がありますね。
八健将にはそれぞれ序列がついており、張遼はナンバー1、八健将筆頭として扱われておりますが、高順は何とこの八健将に含まれておりません。陳宮は軍師ですので含まれないのは仕方ないにせよ、呂布の右腕として長く貢献したのに、何故なのでしょうか。
これはやはり呂布陣営より後の評価が、過去の評価にも影響してしまっているのかと思います。張遼とナンバー2の臧覇は後に曹操に降り、出世していきます。特に張遼の活躍は大変有名です。呂布に最期まで忠義を尽くし、呂布と共にその生涯を終えた高順の評価は三国志演技では低いようですが、正史での描かれ方からすれば、高順は八健将より上位に位置していた大幹部です。
高順はその清廉潔白さゆえに、配下になった経緯は不明とはいえ、おそらく呂布のみに尽くしたと思われます。どんなに虐げられようが、愚直に主君を信じきり、共にその命を散らしました。良く言えばまさにその清廉潔白なのですが、悪く言えば頑固で融通が利かない、自分本位です。
張遼は呂布と同様に丁原に仕え、呂布が丁原を殺した後は一緒に董卓に仕え、さらに呂布が董卓を殺した後はその呂布に、そして呂布が曹操に倒されるとその曹操に仕えています。
丁原に仕えてからは呂布に何となくついていっており、その間の主君も悪評の方が高い人物ばかりです。若かりし頃なので生きるために仕方がなかったのか、まぁいっか♪的な感じのノリだったのかもしれませんが、良く言えば臨機応変、悪く言えば行き当たりばったりですね。
やはりどんなことがあっても、死んでは元も子もない、生きていかなければならないということを現しているのではないでしょうか。
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