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呂蒙はどんな人なの?死因や逸話を紹介!

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呂蒙ってどんな人?武骨で生真面目な努力家であり、知勇を兼ね備えた名将!

呂蒙りょもう、字は子明しめい

呉の名将の一人であり、呉になくてはならない存在であったと思います。孫権から一番寵愛を受けた武将であり、元々は武に頼った戦をし、学問はからきしダメだった呂蒙が智略も兼ね備えた名将になったのには孫権とのエピソードがあります。

様々な逸話を持ち、実績を残した呂蒙、それらを紹介していきたいと思います。

貧しい身からの出世


豫州よしゅう 汝南じょなん富陂ふうひ県(現在の安徽あんき阜南ふなん県)出身。姉の夫である鄧当とうとうの縁故により、最初は孫策そんさくに仕えました。

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異民族、山越さんえつの討伐に向かう義兄の軍にこっそりついていきますが、バレて叱られました。それでも呂蒙は

呂蒙

貧しい暮らしから抜け出す為にも、危険を冒してでも功を上げなければなりません

と反論します。これには二人ともぐうの音も出ませんでした。この時15~16歳だったといいます。

しかし鄧当配下の官吏に悪口を幾度も言われ、腹いせに斬り殺したという話が伝わっており、相当血気盛んだったようです。一度は逃亡しますが、思い直して自首しました。その事件が孫策の耳に届き、心がけ殊勝であるとして孫策に許され、配下となりました。

呉下ごか阿蒙あもうと男子三日会わざれば刮目して見よ】

孫策の死後、孫策の後を継いだ孫権そんけんに仕えます。その当時、呂蒙は貧しい出自もあって教育を受ける機会には恵まれず、武勇一辺倒の人間でした。周囲の武将達からも浮きまくり、「呉下の阿蒙」とからかわれる毎日を送っていました。

呉下の阿蒙とは

「阿」は敬称の一種で、日本語に置き換えると「◯◯ちゃん」のニュアンスに近い言葉で「阿蒙」とは「蒙ちゃん」と言う意味になります。

通常は子供を呼ぶ際に使われる呼び方であり、呂蒙を「阿蒙」と呼ぶのは「おバカちゃん」と言ってバカにしているようなものです。

そんな彼を見かねた孫権は呂蒙に「学問も学んだほうが良い」と助言します。

孫権

お前このままじゃずっと脳筋ヤロウと思われるぞ!少しは勉強もしろ!

呂蒙は主君の言葉に答えようと蒋欽しょうきんと共に猛勉強を始め、みるみるうちに教養を身につけていきました。

それからしばらくの後、孫権の参謀であった魯粛ろしゅくは、久しぶりに対面した呂蒙が以前とは見違えるほど高い見識と知識を身につけたことを知って驚き、「もはや呉下の阿蒙にあらず」とと言ったとされています。

この時、呂蒙が魯粛に返した言葉である「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし(男子、三日会わざれば刮目して見よ)」という言葉も故事成語として知られており、有名な言葉ではないでしょうか。そして逆に全く進歩の無い人間のことを「呉下の阿蒙」と呼ぶようになりました。

魯粛

いやあ~、以前の脳筋ヤロウとは別人じゃないか!!
男たるもの3日で変わるようでなければまだまだです!!

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関羽を討ち取った凄い男!

呂蒙の功績には孫権の父、孫堅を撃った仇敵、黄祖こうその討伐や、江陵こうりょうの戦いもありますが、呂蒙を語る上で欠かすことができないのは、関羽かんうを撃破したことでしょう。

当時、関羽は呉の領土である湘関に入り、食料を奪取したり割と外道な行為を行っていたとされます。そこで呂蒙は、当時無名の陸遜りくそんを自分の後任に推薦したり、関羽の周囲の人間を降伏させたり、裏切らせました。更に呂蒙自ら白衣の商人のコスプレをしたり、虞翻ぐほんに手紙書かせて説得したりしました。

関羽は民草や部下には優しいのですが、自尊心が高すぎるが故、同格の者とは非常に折り合いが悪く、あからさまに見下していたため、この機に次々に見限られてしまいました。

関羽

えっ、ワシって実は嫌われてたの・・・・・

呂蒙は占領した城内でも、人家に侵入する事や略奪行為をかたく禁じていました。同郷の兵士が雨を防ぐために民家から笠を一つ取り立てましたが、

「同郷の人間といえども法を変えることは出来ない」と言い、その兵を処断。以降、呂蒙配下の兵士はたとえ路上に落ちてる物があっても拾うことはなくなりました。

また占領下における人間への気遣いぶりがハンパなく、病人がいれば医師をやり、飢餓や寒さに苦しむ領民がいれば食料や衣類をあげたそうです。こうなると、民の支持はこの場にいない関羽より、いて思い遣ってくれる呂蒙に向くのは自明の理でした。

そして帰る場所もなくなり、麦城ばくじょうに篭城していた関羽。このままではジリ貧ということに気付き、息子の関平かんぺいと共に決死の覚悟で中央突破を望みます。しかし、彼らが通ろうとした道には、朱然しゅぜん潘璋はんしょうが既に待ち伏せていたのでした。かくして三国志に伝説を刻んだ軍神、関羽も、呂蒙の手により敢え無く果てる事になったのでした。

死因は関羽の呪い!?演技では悪役…

この最大の功績、関羽を打ち取ったことが、皮肉にも現代まで後を引いてしまっています。

蜀推しな人達にとっては関羽は軍神、その軍神様を討った呂蒙は逆賊です。そのディスりっぷりはもうハンパなかったようです。蜀推しで贔屓っぷりに定評のある羅貫中らかんちゅうが書いた演技では、特にその傾向が強いでしょう。

正史では呂蒙は病床に伏し、孫権は手を尽くして呂蒙の病を回復させようとしますが、
その甲斐なく、呂蒙は42歳でその生涯を閉じています。なのに演技では何と関羽に呪われて狂ってしまい、孫権の胸倉を掴んで罵詈雑言を絶叫し、体中の穴から血を噴き出して死んでしまうのです…。

孫権

ナニその死に際、怖すぎない?

そして「人形劇三国志」では狡猾で非情な人物として、荊州の民を虐殺し、それを止めさせるため、民を守るためにやむなく投降してきた関羽を嘲笑して騙し討ちにするのです。いくらお子様向けで解りやすい勧善懲悪なストーリーにする必要があるとはいえ、この創作はひどすぎますよね…。

ぐうぅぅ~、これが関羽の呪いか・・・・

呂蒙が意志を託したのは朱然

呂蒙は死ぬ前に自分の後釜に朱然を推しています。陸遜ではないの?と思われるかもしれませんが、朱然は呂蒙から「決断力・実行力ともに十二分」と太鼓判を押されています。

これを受け孫権は朱然に仮節を与え、江陵の守備に就かせました。ただ夷陵いりょうの戦いの際、陸遜が孫権に大都督として抜擢され、実質的に呂蒙の後継者となったので、呂蒙の遺言は通らなかった事になります。

正史と演技で違いが大きすぎる人物はたくさんいますが、呂蒙もその一人と言えるでしょう。

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