周瑜と言えば赤壁の戦いで魏の曹操の大軍をジャイアントキリングしてブレークしましたが、赤壁の戦いの真実性について異議アリ!とする説も出ているようです。そうなると周瑜に対しての評価も変わってくることになります。
はたして周瑜は戦の天才だったのでしょうか。
赤壁の戦いについての記事が別にあるので重複してしまうところがあるかもしれませんが、ここでは赤壁での戦いの前後も含めての周瑜にスポットを当てて見ていきます。
目次
赤壁の前に孫堅に進言
最初、戦いの始まる前に曹操の軍が進行してくるということで、呉ではミーティングをします。
皆、ビビッてしまって降伏を勧める中、周瑜一人だけが勝算アリとして戦うことを主張します。
同じことを考えていた孫権が賛同して目の前の机をぶった斬り、「反対する奴はこの机と同じ目に合わせるぞ!」と言って戦うことに決定したことになっています。
ところが「正史」に注をつけた裴松之によると、元々曹操と戦う計画を考えたのは魯粛であり、魯粛が先に計画していたことをスルーして、周瑜一人が戦うことを主張したとしたことに、魯粛の案をパクっていいとこどりしているといったような指摘をしています。まあ、魯粛はゴースト軍師ということになるのでしょうか。
また、これは既に知られていることですが、火を使った計略も周瑜が考えたわけではなく、部下の黄蓋のアイディアです。
そして既にこの時、曹操軍では疫病が発生していました。結果、この作戦は大成功となるわけですが、後に曹操は孫権に手紙を送っています。
曹操が孫権にあてた手紙
赤壁の戦いでは疫病が発生したので自分で船に火をつけ自ら撤退した、不本意なことに周瑜には虚名を与えてしまったという内容でした。普通にとったら、負け惜しみじゃん!なのですが。
最初に赤壁の戦いの真実性について異議アリ!とする説があると述べましたが、中国の研究者でこの曹操の孫権への手紙をピックアップしてというより、これを事実として唱えている人がいます。曹操は負けてスタコラ逃げたのではなく、自ら撤退したというわけです。
周瑜が赤壁の戦いで活躍していない理由
その理由として三つ挙げられていて、一つ目は赤壁の戦いの後、周瑜は出世も昇給もしていないこと。
二つ目は孔明が劉禅に宛てたとされる「出師の表」の中で、曹操が5回ボロ負けしたことに触れていますが、その中には赤壁の戦いが含まれていないこと。
三つ目は北宋の司馬光が編纂した「資治通鑑」という歴史書の中に、赤壁の戦いの1年後に、曹操が周瑜をヘッドハンティングするために部下を呉に派遣したとの記載があること。
としています。三つ目の理由はよくわかりませんが、これらのことは曹操が赤壁の戦いで呉に負けたのではなく、しかも魏が呉よりも強い場合にのみ可能である。でないと道理が通らないとしています。
結局のところ、赤壁の戦いで曹操が負けたのか自らトンズラしたのかは分からないです。(何じゃそりゃ!したら今まで何をウダウダ書いとったんだべ!といわれそうですが。)
ぶっちゃけホントの事なんかわからないと思います。過去のことは。しかも1,800年も前のことですから。「正史」にしても絶対正しいとは言い切れないと思います。(それを言っちゃーおしめーだ!)
現代の私たちにできることとしては残っているものから当時のことを考えてみるということではないでしょうか。
疫病が勝利を呼んだ
話を戻すと曹操が負けたかどうかの真相はハテナですが、疫病が発生したことは事実です。これは実にポイントだと思います。
歴史に「たら」(サカナちゃいますよー!)はないと言われますが、これがなかったら結果は変わっていたのではないでしょうか。
少なくとも魏軍での疫病発生は呉と蜀のタッグ軍にとってはラッキーだったと言えます。
曹操軍が撤退した後も、周瑜が追撃して江陵城にいた曹操の従弟の曹仁を撤退させたことになっていますが、「呉録」では劉備が周瑜にコラボして攻めるような作戦をアドバイスしていることが書かれています。
つまり、またしても周瑜が作戦を考えたわけではなく、しかも曹仁を撤退させたといっても、劉備のアドバイスの内容からして、周瑜単独の軍ではなく、当然に劉備の軍とコラボして攻撃したと考えられます。
これについては、蜀の歴史書であれば、いいように書いてるなあと思えます。例えて言うと読売新聞のスポーツ欄に巨人がメインで取り上げられているみたいな。(巨人ファンの人、怒らんとってくださいよー!分かりやすいように例を挙げているだけで決して悪意はないです。)
ところが呉の歴史書に書かれてあるのでリアリティがあります。
周瑜は非凡か平凡か
こうしてみると赤壁の戦いで呉軍は蜀軍とタッグを組んで、周瑜をコマンダーとして魏の大軍をジャイアントキリングしたわけですが、赤壁での戦いの周瑜が一般に知られている周瑜のイメージと違ってきます。
しかしながら周瑜が平凡な人物であったというのでは決してありません。
周瑜が亡くなった後で孫権は皇帝になります。その時に孫権は「周瑜がいなかったら俺は皇帝になれなかった」と言うのですが、周瑜のことをべた褒めというよりむしろリスペクトしていたと思われます。
このことからも周瑜が非凡な人物であったことが分かります。
最期に
途中でも言ったように過去の本当のことは分かりません。しかし、こういう説もある、こういう見方もある、こういう捉え方もあるということを知っていると面白さが増えると思います。そのうえで歴史を、三国志を楽しんでいただけたら幸いです。
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