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太史慈の生涯や墓の場所はどこ?最後の死因は何?

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太史慈ってどんな人?忠義の心を持った武人

太史慈(たいしじ)字は子義(しぎ)

青州東莱郡黄県の出身です。若いころから学問に励み、東郡の奏曹史として仕えています。身長は7尺7寸(177㎝)あり、みごとな髭をたくわえた腕の長い人物だったといいます。

太史慈はとあるゲームの影響もあり接近戦をするイメージが強いかと思いますが、弓の名手と呼ばれていました。狙った的は百発百中で外すことがなかったといいます。

学問に励み弓も得意だったこともあり文武両道の人物だったことが窺えます。孫策とともに賊の討伐に行った際、賊の一人が見張り台から罵声を浴びせてきました。その賊が棟木につかまっているのが見えたので、太史慈は弓を引いてその手を木と共に射抜いたと言われています。

評判を聞いた曹操は太史慈を引き抜こうと考えます。そして、曹操は太史慈に書簡を送りました。文箱には書面は何もなく、当帰という薬草だけが入っていました。これは「帰る当し(べし)」という意味が込められています。太史慈の出身である青州は当時、曹操の支配下にあります。そのため、帰ってきて私のところに来いという謎かけになっています。しかし、曹操の誘いも空しく太史慈はそれを断り呉の武将として仕るのでした。

『正史』の作者である陳寿は太史慈を「信義を守ることに一身をかけ、古の人々にかわらぬ操行を持した。」と評価しています。

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とっさの機転で有名になるも憎まれ役に


太史慈が東莱郡の奏曹史であった頃、東莱郡と青州の間で確執が起こります。どちらが正しいか決着がつかないので、先に朝廷に上奏した方が勝ちという事態になってしまいました。このとき、青州からはすでに使者が出ていました。郡の太守は後れをとるわけにはいかないからと使者として送るものを探しました。そして都へ行くように命ぜられたのが当時21歳の太史慈でした。

昼夜兼行で道を急ぎ、太史慈は洛陽に入り公車門へ到着しました。その時、ちょうど青州の役人が上奏文の取次ぎを願い出ていました。太史慈はとっさに青州の使者に「上奏文に間違いはないか確認した方がいい」と声をかけた。

青州の使者は太史慈が東莱郡の使者であるとは思っていなかったので、言葉に従い上奏文を取り出した。すると太史慈は懐に忍ばせていた刀でその上奏文を切り裂きました。これに驚き叫ぶ青州の使者に対して太史慈は「あなたが上奏文を取ってこなければ破ることは出来なかった。だから落ち度は五分五分である。私がここへ派遣されたのは青州の上奏文が受け付けられたのかを確認するためだった。それが破ってしまったとなるとやりすぎだ。互いに罪は免れないが黙って逃げてしまえば刑罰を受けるおそれもない。」と提案した。

青州の使者はこの言葉を信じ、太史慈と共にその場を離れました。城門を出た後、太史慈は行方をくらませて引き返し、郡の上奏文を差し出しました。青州側は再度使者を送りましたが、既に上奏文は届いているとのことで受付けられず、青州にとって不利な処置がとられることになりました。

このことがあり、太史慈の名前は知られることになりました。しかし、機転を利かせて太守の命令は完遂できましたが、青州の役所からは憎まれることとなりました。そのため太史慈は自分の身を案じて身を隠すように遼東へおもむきました。

太史慈の機転と恩返し

北海国の相だった孔融は太史慈の評判を聞いて興味抱き、太史慈が不在の間、太史慈の母親のもとへ贈物を送りました。そんな中で黄巾の乱が発生します。

孔融は都昌に軍を置きますが、管亥の包囲を受けます。その頃に太史慈が遼東から戻ってきたので、母親は「まだ孔融どのと面識もないのにお前が居ない間にお心遣いを頂いた。

その孔融どのが賊の包囲を受けている。あの方のもとに駆け付けるべきです。」と言いました。太史慈は母親のもとに3日だけ留まり都昌を目指します。

孔融と合流した太史慈はその場で兵を借りて賊を討つことを願い出ましたが、孔融は許可しませんでした。孔融は外部からの救援を待とうとしました。しかし、救援は来ず、敵の包囲は日ごとに厳しくなりました。孔融は劉備に救援の要請を考えましたが、厳しくなる包囲を突破できるものがいませんでした。そこで太史慈は恩に報いるべく立ち上がります。

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太史慈は敵の包囲を抜けるために、まず相手を油断させることから始めました。太史慈は馬に乗り的を持たせた二人の騎兵を従わせ城門を出ました。敵は押し寄せますが、太史慈は的を射ると城門へ戻っていきます。これを繰り返すうちに黄巾の賊たちは太史慈が出てきても、ただの弓の練習だと思うようになり相手にしなくなります。そこを太史慈は一気に馬を進めることで賊の包囲網の抜け、劉備へ救援を要請し孔融を助けることが出来ました。太史慈の母親は報告を聞き、恩返しができて良かったと喜びました。

孫策との一騎打ち

三国志演義のなかでは一騎打ちのエピソードはいくつもありますが、そのおおくは創作だったと言われています。ただ、太史慈と孫策の一騎打ちについては正史にも記述があり、数少ない実在した話だと言えます。

太史慈が揚州刺史の劉繇に仕官していたころ江東で勢力を拡大していた孫策が揚州に攻めてきます。劉繇は太史慈に孫策軍の偵察に行かせたところで孫策と遭遇しました。その時孫策は韓当や黄蓋ら13騎を従えていましたが、太史慈は進み出て孫策に戦いを挑みました。孫策は太史慈の馬を刺したうえで背負っていた手戟を奪い、太史慈は孫策の兜を奪い取りました。正面からわたりあいましたが、双方の軍が駆けつけたことで手を引くことになりました。

この後、劉繇と共に孫策に敗れ、太史慈は孫策の幕下に加わります。
やがて劉繇が豫章に逃げた後死亡し、その配下の兵士たち1万人近くが残されてしまいます。そこで孫策は太史慈に、これを安撫させよと命じました。

これに対し孫策の側近の多くは戻ってこないと口をそろえて言いましたが、孫策は「私を捨てて誰につくというのか。」と返しました。孫策のいつ戻って来られるのかの問いに対し、太史慈は「60日以上はかかりません。」と約束し、言葉通り戻ってきたのでした。

太史慈の最期とそのお墓は

206年に41歳の若さで病死したといわれています。裴松之の『呉書』によると臨終の際「大丈夫たるもの世に生きては、七尺の剣を帯びて天子の階(きざはし)を升(のぼる)べきものを、まだその志が実現できぬうちに、なんと死ぬことになるのか。」と嘆息しながら言ったといいます。

今後も活躍する意欲と野心はあっても病気には勝てなかったようです。孫権は太史慈の死をいたく悲しんだといいます。

太史慈のお墓は1870年に江蘇省鎮江市北固山で発見されました。その石碑の近くには同じく呉を支えた軍師、魯粛のお墓もあります。

また、三国志演義においては合肥の戦いにて張遼と戦います。その時受けた大量の矢の傷がもとで亡くなります。正史においての太史慈は赤壁の戦いも合肥の戦いにも参戦することはできませんでした。孫策と一騎打ちをなし、武を究めて忠義に生きた太史慈に参戦していてほしかったという羅貫中の思いが込められているのかもしれません。

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