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朱然ってこんな人!墓の場所や最期の死因は?

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朱然ってどんな人?呉の最古参の一人を父に持つ良血のエリート

朱然しゅぜん、字は義封ぎほう揚州丹陽郡故鄣県ようしゅうたんようぐんこしょうけんの出身。

身長は「7尺に満たなかった」という記述だけが残っており、正確な身長はわかっていないようです。
しかし多くの説を見てみるとどうやら朱然は161センチにも満たなかったということなので、大柄な武将が多く登場する三国志においてもかなり小さい部類に入ると思います。

さて、そんな朱然ですが元来は施然しぜんという名前でした。13歳のとき、叔父であり孫家最古参武将の一人である朱治しゅちに養子にもらわれます。
この養子縁組の仲立ちを孫策自らが行い、豪華な食事を用意させ施然少年を迎えたということですから、いかに厚遇されていたかがわかりますね。
また彼は幼い頃、後に自らの主君となる孫権そんけんと机を並べて共に学んでおり、友誼ゆうぎ(親友のよしみ)を結んだと言われています。

しばらくして孫権が兄・孫策そんさくの死後にその跡を継ぐと、驚くべきスピードで出世を果たします。
19歳で県の長官に就くと、出世に出世を重ね、瞬く間に五つの県を取り締まる要職に就くことになります。

そんな朱然の力を孫権は非常に高く評価します。朱然を太守にするためにわざわざ丹陽という郡を分割して臨川という新しい郡を作ってしまうというのですからいかに異例の高評価かが分かりますね。
孫家最古参一族の2代目というまさにエリートの彼。幼い頃から将来を嘱望されながら、それにことごとく応えて孫権軍の主力へと成長していきます。

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呉軍の「エース」として大活躍した全盛期


朱然というと、某ゲームの影響からか世間では「火攻めの人」という印象を多く持たれているようです。実際の彼は火計を得意としていた武将だったのでしょうか?

確かに朱然も従軍した222年の夷陵いりょうの戦いにおいて、陸遜りくそん率いる呉軍は火攻めで劉備りゅうび率いるしょく軍を散々に打ち負かします。
しかしその他の朱然が従軍したとされる戦いにおいては火計を行ったという記述は見当たりません。

実際朱然が戦においてどのような戦法を得意としていたのかは定かではありませんが、
彼の戦歴を改めて見て火計よりも目につくのは、彼の寡戦かせん(少数の軍で大軍と戦うこと)での圧倒的な戦果です。

勿論守備側の方が攻撃側よりも有利であるという要因もあったでしょうが、それでも濡須じゅす江陵こうりょうといった呉の防衛上における最重要拠点を常に任され、それも相手は曹操そうそうや劉備、曹真そうしん張郃ちょうこうといった名将相手にすべて退却させているのですから、孫権がいかに彼を信頼していたかは想像に難くありません。

かといって守り専門の人というわけでもなく、219年の関羽かんう討伐戦においては潘璋と共に別動隊を率いて関羽を捕らえるという戦果を挙げていますし、
222年の夷陵の戦いでは劉備率いる大軍相手にやはり別動隊を率いて相手先鋒隊を散々に打ち破り大勝のきっかけを作りました。

絶対に負けられない戦いに全幅の信頼を寄せられて出撃する、まさに朱然こそが当時の呉軍の「エース」だったのではないでしょうか。

生まれついての指揮官だった?まさに頼れる好かれる上司という朱然の性格

朱然は生まれも育ちもまさに「エリート」といった感じですが、性格は非常にハッキリとした性格で、品行は正しく潔癖であり、装飾は軍器にのみ施し他はすべて質素であったといいます。

しかも平時から常に戦に備えているのにピンチに陥っても常に冷静である、こんな頼りになる上司が指揮官であったのなら兵士たちも常に心強くいられたことでしょうね。寡戦での強さの秘密の一端が、朱然の性格にもあるかもしれませんね。

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呉の屋台骨を支えた晩年


やがて時を重ね、呉軍でも世代交代が起こります。呉の歴戦の武将が次々と表舞台から姿を消す中で、若い世代の武将たちのまとめ役となったのが朱然でした。
しかし245年に陸遜までもがこの世を去ると、彼と同世代以上の武将はいなくなってしまいます。

主君孫権はますます朱然に対して信頼を寄せ、朱然も主君の期待に応えるため要衝江陵の防御力強化のために砦設計に携わるなど病床から仕事をし続けました。
病に倒れてもなお呉国防衛のために身を粉にしていたというのは胸が痛くなる思いがします。
しかし249年、志半ばでついに帰らぬ人となってしまうのですが、孫権はそんな彼の死をいたく悲しみ、自ら喪に服したということです。

名将なのに嫌われ者?「三国演義」での最期

「三国演義」での朱然は夷陵の戦いにて関羽と張飛ちょうひの息子である関興かんこう張苞ちょうほうによって殺されています。

関羽の死も張飛の死も結果的に219年の関羽討伐戦において朱然が潘璋はんしょうと共に関羽を捕らえたことが遠因となるわけですから、三国演義の作者・羅漢中らかんちゅうにとっても憎き仇役だったのかもしれませんね。

「三国演義」での活躍・退場の仕方を見ると人気がないのも頷けますが、史実での活躍ぶりを鑑みると正直かわいそうになってしまいます。
やはり三国演義でもトップの人気を誇る関羽と張飛の仇ならではの不遇っぷりを垣間見ることができますね。

朱然のお墓はあるの?

朱然の墓は1984年に安徽省馬鞍山市雨山郷あんきしょうばあんしうさんごうという長江付近のところで発見されたそうです。呉の重鎮を弔うにふさわしい、大変豪華な副葬品が多数発見されたということからも、改めて孫権からいかに信頼を寄せられていたのかを窺い知ることができますね。

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