孫堅、字は文台。
呉の礎を築いた孫策、そして安定させた孫権、劉備の妻ともなった孫尚香らの父親であり、孫権と読みが同じことから、堅パパと表現されることも。曹操、劉備と同世代であり、董卓に「江東の虎」と恐れられた武勇を持つ人物です。
孫策、孫権が勢力を拡大したことで、呉の始祖として祀られています。
今回はそんな堅パパを紹介していきたいと思います。
目次
海賊退治で名を挙げ勢力の基盤を作る
17歳の時、父と共に船で出掛けていた時、海賊達に遭遇します。旅人達が怖れて近づこうとしないところ、孫堅は退治しに向かうのでした。
刀を手にして岸に上がり、手を振って東西に合図を出すような仕草をします。海賊達はそれが兵士達を指揮し、退路を断とうとしてるように見えたので、略奪品を放り出し、あわてて逃げ出すのでした。孫堅はそれを追いかけ、海賊の内、1人の首を取って無事に戻ってきます。
この手柄で孫堅の名が知られるようになり、役所から仮の尉(警察・軍事を司る職)に任命され、これが出世の糸口となるのでした。
それから妖賊(宗教結社を基盤とした反乱勢力)の反乱を鎮圧するなどの功績を立てた孫堅は、複数の県の丞(県令を補佐する役目)となります。行政の仕事も担当するようになり、規律正しく、公正さを重視する人柄であったため、どこの県でも評判がよく、役人も民も彼を慕っていました。
このように武に秀でているだけでなく、統治者としての力量も備えていることが伺えます。そうして地位が上がった孫堅の下には、郷里の知人や一旗あげることをもくろむ者など数百人が集まり、これが孫堅の勢力の基盤となります。
後に呉を支える朱知や程普はこのような過程で孫堅に仕えるようになります。そうして集まってきた者達を手厚く待遇し、身内のように扱ったので、孫堅軍は結束が強固になっていきました。
表舞台に立つ黄巾の乱の鎮圧
この丞として職務に励んでいた頃、天下を揺るがす大反乱、三国時代の幕開けとなった黄巾の乱が勃発します。後漢の朝廷は黄巾賊討伐に車騎将軍の皇甫嵩と、中郎将の朱儁を派遣します。
この際に朱儁は同じ揚州出身で優れた手腕を知っていた孫堅に部下となって欲しいと依頼し、孫堅も快諾し、千人を率いて朱儁の下へ付き、華々しい活躍を行い、武功を挙げていくのです。
朱儁軍は連戦連勝で向かうところ敵なしでしたが、この時に孫堅の唯一とも言える欠点が垣間見えます。孫堅は勇猛かつ大胆、そのため戦場でも常に自ら先頭に立ち、戦っていましたが、そのために負傷することもしばしばありました。
ある時苦戦を強いられ、負傷して落馬し、草むらの中に倒れ込むも、愛馬が軍営に戻り、足で地面を蹴って嘶き、歩き出したので、将士達は馬についていくと孫堅の下に辿り着いた、というエピソードもあります。それから十日程休養し、傷がある程度癒えると、また戦いに出ています。
このように自らは強いものの、一人で突出しすぎる癖があり、それが危険に遭遇させてしまいます。もちろん将自らが危険を顧みず先陣をきると、部下達もこの人に付いていきたい!と思い、士気は上がるでしょう。しかし、将が倒されてしまえばすべてが終わりです、この欠点が後に仇となってしまいます。
反董卓連合に参加し華雄を斬る!
その後、各地で人材を手に入れ、転戦して実戦経験も十分に積んだ孫堅軍は、やがて軍閥と化します。そして反董卓連合に参加し、袁術の部下となり、経済的援助を受けながら洛陽へ向かいます。
董卓は南から孫堅軍が近づいてきたことを知り、猛将、華雄を派遣します。ここで「陽人の戦い」と呼ばれる戦が起きるのです。
この時の董卓軍の指揮官は大督護の胡軫であり、騎督の呂布も派遣されていましたが、胡軫と呂布は仲が悪く、呂布は胡軫の足をひっぱり、作戦を失敗させようと嫌がらせを繰り返します。
いくら上司が嫌いとは言え、自分達がわざと負けるようにし、敵に味方を殺させようとする呂布って、まさに無秩序、アナーキーすぎるでしょう。
呂布の嫌がらせで疲労困憊でボロボロの胡軫軍、撤退しようとしたところに孫堅軍に追撃され、大敗してしまいました。この時に孫堅は華雄を討ち取り、その首をさらしものにして勝利を喧伝しています。
あれ?と思う方もいらっしゃるでしょう、華雄って「虎牢関の戦い」で関羽に討ち取られたんじゃないの?と。それは演技での創作であり、本当は孫堅が倒しているのですが、演技は基本的に劉備推しのため、関羽の鮮烈デビューを飾るためにこのようになってしまったのでしょう。
しかし、華雄は可哀想すぎますね…、演技では関羽のかませ犬扱い、正史ではパワハラ上司とアナーキーな同僚に挟まれ殺される…。
伝国の玉璽を手に入れる!
玉璽と言えば、はちみつ皇帝袁術が思い浮かぶでしょうが、最初に見つけたのは孫堅です。そんな袁術の配下として董卓軍を次々と破っていった孫堅、袁術が兵糧を送らなくなるという嫌がらせもありつつ、洛陽に一番乗りを果たしています。
洛陽は既に董卓によって焼け野原となっていましたが、孫堅軍はこの地の復興に尽力します。ある時、孫堅は洛陽の南の地域の瓦礫を片付けていました。そしてある井戸の中から玉璽を発見、これを隠し持ち、すぐさま洛陽を出発するのでした。
そして孫策に形見として引き継がれ、孫策が袁術に兵を借りるために譲ることになります。
勇猛さが仇となった猛将の最後
その後、反董卓連合軍は不協和音が目立ち崩壊。孫堅は仲の悪い袁紹と袁術の袁氏一門の兄弟争いに巻き込まれてしまいます。
この頃は袁紹と袁術が中心となり、勢力争いが展開されていました。袁紹は劉表と同盟を結び、袁術は公孫瓚と同盟を結んでお互い牽制し合います。このため、袁術は孫堅に荊州に攻めこんで劉表の本拠地である襄陽を奪うようにと命じました。
後に「襄陽の戦い」と呼ばれるこの戦、孫堅はまず前衛基地である樊城を攻撃、劉表はこの樊城を守っていた黄祖に孫堅軍を追い払うよう命じます。孫堅は迎撃に出てきた黄祖を易々と撃破、そして漢水を渡り、劉表の居城である襄陽を包囲します。
窮地に陥った劉表、黄祖に城外へ出て兵士を集めてくるように命じます。しかしそれを読んでいた孫堅、黄祖に待ち伏せをしかけるのですが、それが思わぬ結末をもたらしてしまうのでした。
兵士を集めていた黄祖に奇襲をしかけ、打ち破ると黄祖は峴山という場所に逃げ込みます。ここで孫堅の悪癖が出てしまい、自ら先頭に立ち、単騎で峴山に入り込み、黄祖を追撃し討ち取ろうとしました。そこへ山林に潜んでいた黄祖の部下、呂公が弓矢で孫堅を狙撃、その矢が孫堅の体を貫き、亡くなってしまうのでした。
享年37歳、孫堅は前述の通り、単騎で突出する癖があり、この時も赤くて目立つ頭巾を身に着けていました。その勇猛さが彼に死をもたらしてしまったと言えるでしょう。
孫堅は貧しく、後ろ盾もないまさに徒手空拳の状態から身を起こしたため、自ら先頭に立って、個人的な武勇を示さなければ、人がついてきてくれなかった、という事情もあったのかもしれません。
もう少し基盤がしっかりとしていれば、このような無理をすることもなかったかもしれず、性格も慎重であれば、生存し、孫家、呉はもっと飛躍していたかもしれませんね。
名作”三国志 Three Kingdoms”を無料で視聴する方法
三国志は映画やドラマなどいろいろな作品がありますよね!
その中でも本場・中国で制作された”三国志 Three Kingdoms”は名作との呼び声が高く、管理人自身自信をもってお勧めできる三国志ドラマです。
実はYouTubeなどにもあるにはあるんですが、全部の話はなくとびとびの話しかなかったり違法行為なので運営から削除されて見れなくなったりしています。
ですが、FODプレミアムに登録すると”三国志 Three Kingdoms”の全話が見れて一か月以内に解約さえすれば料金は全くかからないんです。
\一か月無料プラス100p付き/
FODプレミアムで”三国志 Three Kingdoms”を無料で視聴する