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徐盛ってどんな人?義と胆力に優れた勇者だけど、プライドが高いところが玉に瑕
徐盛、字は文嚮。
某大人気格闘ゲームでも徐盛を操作できるようになったり、最近徐々に名を上げているキャラではないでしょうか。
呉の武将で、孫策の代から呉に仕えていました。戦争専門家として、知勇兼備の働きを見せた名将であり、丁奉とよくコンビを組んで行動することが多いです。
甘寧を筆頭に、呉の武将には良くも悪くも剛毅な血の気が多い人物が多いですが、彼も例外ではありません。プライドの高い一面も散見しますが、その実力の高さは史書からも伺えます。
そんな徐盛、どのような武将だったのでしょうか、詳しく説明していきたいと思います。
柴桑を鉄壁の守備で守り黄射を破る
黄巾の乱が勃発し、世が乱れ始めた頃、徐盛は故郷の徐州 琅邪郡を離れ、呉郡に居を置き、そこで度胸があり義に厚い男だと評判になりました。
孫策亡き後、孫権が後を継ぐと、徐盛は別部司馬に任ぜられ、兵士五百人を受け、柴桑県長となり、孫権の父、孫堅の仇敵でもある、劉表の配下、江夏の黄祖の侵攻を食い止める任務を与えられます。
ある時、黄祖の子、黄射が数千人を率い、長江を下って徐盛に攻撃を仕掛けてきました。その際、徐盛は二百人に満たない数の軍吏と兵士しかいませんでしたが、これを迎えて一歩も引かずに戦い、黄射の軍千余人に傷を与えました。
柴桑はそれ程守るのに恵まれた地形ではなく、数千人を二百人以下で追い返すだけでもすごいのですが、その後、城門を開いて追撃し、付近に駐屯する敵軍に何度も攻撃を仕掛け、敵を徹底的に打ち破り、壊滅させたのです。それから黄射は徐盛を恐れ、トラウマになってしまったのか、このことがあって以降二度と侵攻してくることはありませんでした。
この功績で徐盛は昇進、高級武官である校尉に任ぜられ、柴桑県よりも大きな蕪湖県の令となります。
ただ、この時に宣城に駐屯していた蒋欽の部下を処罰しようとしましたが、蒋欽の功績を重んじた孫権に拒否されています。このことで徐盛は蒋欽に嫌悪されていると考えました。
その後も孫権軍を常時悩ませていた山越討伐でも功績を挙げ、その手柄で中郎将という役職に転進。兵士の監督、そして選別の役割を担うようになりました。
敵陣に流れ着いても恐れず突撃した濡須口の戦い
それからも徐盛は数々の功績を積み上げていき、時は流れて赤壁以来ともいえる曹操軍の大襲撃である濡須口の戦いに姿を現します。
曹操軍を船に乗って追撃していた呉軍でしたが、不運にも突如吹き荒れた突風により、徐盛の乗る船は曹操軍の岸辺に座礁。曹操軍の近くに漂着してしまうという大ピンチに陥ってしまいます。
この突然の不幸に呉軍の将達は皆震え上がりましたが、徐盛だけは手勢を率いて船を降り、たった一人で兵をまとめ上げ、曹操の軍勢に突撃を開始したのです。これにつられて味方も一斉に曹操軍に突貫し、驚く曹操軍に大打撃を与えて追い返すことに成功したのです。
このことを聞いた孫権は徐盛の勇敢さを褒め称えたそうです。
さて、この濡須口の戦いで、蒋欽は呂蒙と共に諸軍の総指揮に当たっていました。徐盛は以前のこともあって彼を恐れていましたが、蒋欽は徐盛の優れた所をしばしば褒め称えたために、徐盛も蒋欽に心服し、また人々も蒋欽の徳を褒め称えることになりました。孫権は蒋欽に理由を聞き、私怨に捉われない態度に感心したと言われています。
しかし、そんな徐盛も合肥の戦いでは、圧倒的強さを見せる張遼には勝てず敗退。自軍の旗を奪われて、徐盛自身も負傷。潘璋や賀斉らに助けられてようやく旗を取り戻すという、痛い敗北を喫しています。
垣間見えるプライドの高さ
この濡須口の戦いの後、朱然達と共に、周泰の指揮下に付けられたことがありました。徐盛らは周泰を軽く見て、どこの馬の骨かも知らない男に従えるものかと反発していました。
孫権は自ら濡須塢で諸将を集めて宴を開き、そこで周泰の上着を脱がせ、傷ひとつひとつの由来を語らせるなど、気配りをし、周泰の功績を強調し厚遇する態度を示しました。それにより、徐盛達も周泰の下に付くことを納得し、従うようになりました。
221年には、一時的に魏へ臣従していた孫権が呉王の位を与えられることになったため、魏の使者、邢貞が訪れました。
そこで邢貞が孫権らの真意を確かめるために終始傲慢な態度をとったため、張昭をはじめ、群臣たちは皆大激怒でしたが、徐盛は堂々と一歩進み出て「我々が過去に劉備ごときを併呑できなかったがため、今は魏如きと盟約を結ぶ事となってしまった。このような恥なことはない」と言い放ち、号泣しました。
これを聞いた邢貞は甚く感服し、呉がいつまでも臣従しないであろうと随員たちに語ったと言われています。
他にも陸遜との衝突や蒋欽とのいざこざを見る限り、この手の名将にありがちなプライドの高さがあだになるケースも見られます。
関羽も結構プライドが高く、五虎大将軍に任命された時に馬超を新参者、黄忠を老いぼれ呼ばわりして、そんな奴らと同格など不愉快、そんな称号いらん!とゴネていましたが、似たようなものかもしれませんね。
偽城壁で曹丕を欺き追い払う
呉と魏の戦いは続き、ついには曹丕自ら長江を下り、大軍を率いて呉に攻め入ってきました。
徐盛は長江沿岸数百里にわたって偽の城を建て、曹丕を脅かしてやろうと提案しました。しかし、多くの将は「そんなことをしても無駄」とあきらめモード、反対しましたが、徐盛はこれを押し切って、偽の一夕城を築きました。
この城を見た曹丕は茫然自失。魏の将たちも度肝を抜かれ、呉に攻め入ることに恐怖を覚えました。そして長江の水かさが増していることもあり、曹丕はこれを見て、「彼(孫権)には未だ人材が多く、攻め取るのは難しい」と感嘆し、呉を攻め取るのは時期尚早だと考え、軍を引き上げていったのでした。
呉の将達はこうして徐盛を敬伏し、崇めるようになったと言われています。
そんな徐盛の後世の評価は?
さて、そんな徐盛の後世での評価ですが、正史三国志を編纂した陳寿の評では、「江南の勇猛の臣の一人であり、孫氏が手厚く遇した者である」として称えて、加えて、「東南の地を確保して割拠することができたのも、しかるべき理由があったといえよう」と呉を支えた人物の一人として挙げています。
個性的な多くの英雄が登場する三国志では、影が薄い印象ですが、その活躍ぶりは諸将を凌ぐものがあり、呉には欠かせない武将でしょう。
武力だけではなく、偽の城などの策略にも優れ、義と胆力にも優れています。ただ、プライドが高いところが玉に瑕ではあります。
周泰を「どこの馬の骨かも知らない男」、劉備を劉備「ごとき」と、あの毒舌禰衡にも劣らない毒を吐いていますね。
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