典韋(てんい)が死亡したときの逸話が衝撃!曹操が愛した悪来とは?

典韋は本当に悪来?本当は忠義心の強い人物

典韋は兗州の生まれですが、何年に生まれたかは記録に残っていません。字も不詳です。ただ、197年に死亡したことだけは記録されている人物です。

典韋の容貌は立派で人並み外れた怪力の持ち主だったそうで、80斤(48キロ)の重さの戟を片手で軽く振るうほどの剛力さだといいます。そのためか、人の倍以上食べたり飲んだりしていたそうです。

お酒も好きで、左右から酒を注がせ、給仕を数人に増やしてやっと間に合うほどよく飲んだそうです。

典韋ってこんな人!

豪快なイメージの強い典韋ですが義侠心の強い人物です。日中はずっと曹操のそばで立ち侍り、夜は帳の左右で宿衛していたため、自分の部屋に戻り眠ることは殆どありませんでした。

親衛隊を数百人統率し、大張の周りを固め、戦闘になると先鋒を務めて敵を陥れます。典韋は曹操にとって立派なボディガードであり信頼のおける武人でした。

固い節義を持っており、友人である劉氏のために仇敵である李永に報復しました。李永はもともと富春県の県長です。厳重に護衛をつけており簡単に近づくことはできません。そのため典韋は訪問者になりすまして正面から入ってきました。

そして、忍ばせていた七首で李永とその妻を刺し殺します。騒ぎになったものの、誰も典韋に近づかず遠巻きに後をつけるのみでした。敵に包囲されてはあちこちで戦い、脱出します。その一件で豪傑として知られるようになります。

典韋は曹操が例えた「悪来」というあだ名が有名ですが、これは『三国志演義』による脚色です。

もともと「悪来」というのは司馬遷の『史記』に登場します。これも個人の名前ではなく通称です。殷の時代、紂王に仕えていた贏来(えいらい)のことを指します。贏来は剛力で知られていましたが、政治を任せると人を陥れるような言動が目立ち、人々から嫌われた結果「悪来」と呼ばれるようになったといいます。

典韋は80斤の戟を振るうことのできる力のある人物です。前述のような人物なので人を陥れるなどということは想定されていないでしょう。むしろその漢気で人を助けるような人物だと言えます。

曹操の典韋に対する「悪来」という表現は、力強くて頼りになる人物であること、その剛力さが相手にとって脅威や「悪」である、といったニュアンスを含んだ発言として羅漢中は描写したのではないでしょうか。

悪来の壮絶の最期


197年、曹操軍の侵攻により宛に駐屯していた張繍は降伏します。ここで曹操はすでに亡くなっている張繍の叔父・張済の未亡人である鄒氏との情事に没頭します。これに怒った張繍は軍師である賈詡に助言を求め、そして謀反を起こすことになります。

まず、張繍の降伏を喜んだ曹操は張繍とその将帥を招いて大宴会を催します。曹操が張繍らに酒を注ぎ回っている間、典韋は刃渡り一尺もある大斧を持って曹操の後ろに立ち、その斧を持ち上げて彼らをにらみつけていました。そのため、誰も顔を見上げることは出来ませんでした。

曹操との宴会から数日後、張繍は急襲を開始します。油断していた曹操は成す術もありません。曹操を逃がすべく、部下たちは戦闘になりました。曹操の退路を死守するべく、典韋が守っていた門から敵は侵入することはできません。迂回して敵兵はばらばらに他の門から侵入したのでした。

典韋と十数人の将校はそれぞれ一人で十人を相手にできるような猛者ばかりでした。典韋が戟を振るうと、敵の矛が十数本砕かれるほど奮闘します。しかし、敵はどんどんと増えていくばかりで、反対に時間が経つごとに部下たちは死に絶えていきます。

典韋自身も満身創痍でした。戟を失うと傷だらけの身体でも敵二人を両脇に挟んで絞め殺します。これを見た敵は近づくことができなかったそうです。典韋は最期、突進して数人を殺してから目を怒らせて大きく口を開け、大声で罵りながら亡くなりました。

その様子を見た敵兵は遠巻きにしか見られず、恐る恐る典韋に近づき死を確認してから首を取りました。敵陣は皆で典韋の遺体を見物しました。

また、『三国志演義』の張繍の謀反においての典韋は胡車児に酒で酔わされた隙に武器を奪われます。敵の武器を奪い取り戦いましたが、最期は雨のような弓と槍を一身に受けて直立不動のまま息絶えます。

主のために敵の前に立ちはだかる忠義心と、最期まで戦い抜き一斉に弓を受けて直立不動で亡くなる様子は源義経と弁慶を彷彿とさせるのではないでしょうか。

曹操の愛した悪来


曹操は張繍の謀反の後、舞陰まで退却しました。そこで典韋の死を聞くと嘆き悲しみ涙を流します。共に戦いで亡くなった実子である曹昂や甥の曹安民の死よりも典韋の死を悲しんだとされています。

曹操は敵陣で見世物状態になっている典韋の遺体を盗み出る者を募り、遺体を奪還します。曹操は告別式で泣き、遺体は陳留郡襄邑に送り届けさせました。

その後、曹操は戦死した場所を通るたび、典韋を弔いました。そして典韋の子である典満を郎中とし、後に司馬として取り立てて傍に置きました。
典韋は曹操にとって何よりも代えがたい存在として丁重に扱われたのでした。

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