法正って実はすごい人!劉備が溺愛した軍師の素顔とは?

法正ってどんな人?蜀成立の立役者で、蜀を支えた天才軍師

法正ほうせい、字は孝直こうちょく

劉備りゅうび入蜀の立役者であり、元々は劉璋りゅうしょう配下でした。謀略に長け、参謀として益州えきしゅう平定を成功させた後、漢中かんちゅう攻略で活躍しました。

報恩も忘れなければ、報復もやり遂げる徹底した「報いの精神」の持ち主、と某大人気格闘ゲームでは紹介されています。

あの人材コレクター曹操そうそうに「自分は多くの人材を集めたが、なぜ法正を手に入れることができなかったのだろう」と嘆かせ、超有名天才軍師諸葛亮しょかつりょうが口出しできず、そして彼の短命を大いに嘆いたといいます。

そんな希代の天才戦略家、法正はどのような人物だったのでしょうか。

上司の才能に失望した劉璋配下時代


法正は扶風ふふう県の出身で、ちなみに、この郿は、長安に遷都した董卓とうたくが、拠点を構えていた土地でもありました。祖父の法真ほうしんは学問に秀で、人を見る目があり、清廉な名士として知られており、一方、法正は知謀は優れていたものの、人徳には欠けている面があったようです。

董卓の暴政によって天下に大乱が発生すると、やがて扶風郡も食糧不足に見まわれるようになります。そして飢饉に遭ったため、同郷の孟達もうたつと共に益州牧の劉璋に身を寄せました。

しかし、劉璋の下では新都県令や軍議校尉に任じられましたが、重用されることはありませんでした。 これは同じ村の出身者で劉璋に仕えていた者に、「法正は品行が悪い」と誹謗されていたことが影響しています。このため、法正はうだつの上がらない日々を過ごすことになりました。

法正はそんな劉璋を『大きなことを為す器ではない』と考え、友人の張松ちょうしょうと共に劉備を益州に迎え入れることを画策します。法正は張松と共に劉璋に進言し、曹操と断交させ劉備と盟約を結ばせました。

さらに張魯ちょうろの脅威を利用し、劉璋を再び動かし、劉備の下に使者として赴き、密かに自身や張松と協力して、劉備に益州へ入るよう勧めました。個人的に親しかった彭羕ほうようが劉備への仕官を求めてきた際には、龐統ほうとうと共にこれを推挙しています。

劉備に心服し益州奪取を計画する

法正は、当初は劉備をよく思っていなかったようです。張松は劉璋へ曹操とは手を切り、劉備と同盟を結ぶことを勧め、劉璋も賛成したため、その劉備への使者に法正を推薦しました。

しかし、法正はこれを辞退しますが、張松が強く勧めたので、やむなく荊州に向かいます。そして実際に劉備に会ってみると、張松と同じく心からの歓待を受けました。法正は荊州けいしゅうに滞在するうちに、劉備自身と彼に仕える将軍たちの強さを知り、劉璋とは違い確かな実力を持った存在だということを理解します。

このため法正は劉備にたずねられるままに益州の軍の配置や要害のありか、街道の接続などの機密情報を詳細に説明しました。これによって劉備は益州の情勢をつぶさに知ることができ、また法正と張松が自分に心を寄せていることも知ったのでした。

法正は帰国すると張松に「劉備は大変に優れた武略の持ち主だ」と称賛し、「劉璋にかわって益州の主にするべきだ」とも主張します。法正は劉備に会って初めて、仕えるべき主君に出会った、という気持ちになっていたのでしょう。張松もまた、劉璋に仕えていても先がないと感じており、劉備を迎えることに賛同しました。

時は流れ211年、曹操が漢中の張魯を討伐する、という噂が流れます。漢中は益州の北部にあり、劉璋の領地と隣接しているので、ここに曹操がやってくると、いずれ益州が奪われるのは時間の問題でした。

これを劉璋が大変に恐れたので、張松は好機だと判断します。「劉備を益州に迎え入れ、張魯を討伐させるのがよろしいでしょう」と張松が進言をすると、劉璋はこれを受け入れました。そして法正を使者として送り、劉備に援軍を要請させます。

この時に法正は劉備に対し、「殿の英才をもって、劉璋の惰弱を討ってください。張松は劉璋の股肱ここうの臣ですが、内部から呼応します。益州の肥沃な土地を手に入れ、天与の堅固な地勢を頼みとなさいませ。それらを元手にすれば、功業を成就するのはたやすいことです」と伝えました。

それでも劉備は劉璋への信義を裏切り、益州を奪う事をためらっていましたが、龐統の説得により決意します。そして劉備は益州に数万の軍勢を率いておもむき、劉璋に歓待されました。

龐統の献策で荊州に帰るふりをして劉璋軍の油断を誘い、将軍を討ち取ってから挙兵することにしますが、この時、策を張松に伝えていなかったために、張松は劉備が本当に荊州に帰るつもりだと誤解し、慌てて引き留める手紙を送りました。

この手紙が漏洩してしまい、張松の陰謀が発覚し、彼は処刑されてしまいます。こうして法正は同志を失いましたが、劉備の元に逃れ、いよいよ益州奪取に取り組むことになります。

劉璋に降伏を勧める

劉備の成都攻略の際、補給物資の少ない劉備軍の弱点を見抜き、劉璋に鄭度ていどが焦土作戦(防御側が自国内の攻撃側に利用されそうな物資や施設を焼き払い、相手の疲弊を待つ作戦)を進言します。それを知った劉備は、軍師として同行していた法正にどう対処すべきか相談します。

すると法正は「劉璋には、自国民を虐げる焦土作戦を実行するだけの度量はありません」と進言しました。彼の思惑通り、劉璋は非情な焦土作戦を実行することはできず、劉備軍に成都が包囲されると、劉璋はまもなく降伏しました。

この時に法正は劉璋に、降伏を勧める手紙を送っています。「らく城を一万の兵士で守らせても、全体の戦況はすでに劉備側に傾いるため、すでに敗軍の兵であり、抵抗してもいずれは必ず敗れます。劉備はあなた個人に害意は持っていないため、降伏すれば一門は維持されることになります」という内容でした。

実際のところ法正が書いた通り、劉備は劉璋が降伏した後に、将軍の印綬や財産を返却しており、丁重に取り扱いました。なお、雒城攻略戦の最中に、もう一人の劉備の謀臣であった龐統が戦死しています。このため、残った法正の存在価値が、大きく高まっていくことになります。

劉備の重臣として劉備の漢中王即位に貢献する


こうして劉備が益州を支配すると、法正は蜀郡太守・楊武ようぶ将軍に任じられました。この時に劉備は諸葛亮、関羽かんう張飛ちょうひ、そして法正の4人に、等しく金銀などの財宝を与え、最も高い勲功があったと称賛しています。

このように法正は劉備に仕えて数年で、一気に重臣の地位にまで登りつめたのでした。そして劉備は法正を側近にし、作戦の立案を担当させています。

定軍山ていぐんざんの戦いでは夏侯淵かこうえんを打ち破っています。

法正は曹操軍の内情を観察し、漢中の防衛を任せられたのが夏侯淵と張郃ちょうこうの二人だけだと判明すると、劉備に漢中攻略を進言、自らも軍師として従軍します。

初戦こそ配下の武将を討ち取られて苦杯をなめさせられた劉備でしたが、法正の作戦に従い形勢逆転、黄忠こうちゅうが夏侯淵の首を取って大勝を収め、漢中の奪取に成功します。

敗戦の報を聞いた曹操は、その作戦の立案者が法正であったことを知って、「そんなことだろうと思った。劉備にこのような見事な作戦を立案することはできないからな」と語ったと言われています。

劉備が溺愛した軍師の素顔とは?

法正は劉備には忠実に尽くしていました、だからこそ劉備は法正を深く信頼し、多少のとがは見過ごしていたと思われます。

そんな法正、蜀建国の功臣であり、軍略家として、また政治家としてもその才能を高く評価されている法正ですが、人間的には最悪の人物であったとされています。

法正は自分にわずかでも恩恵を施した者には、その返礼をしていますが、その一方でちょっとした怨みにも必ず報復し、かつて自分を誹謗していた者たちを勝手に殺害してしまいます。

法正は記憶力がよく、そして執念深い性格で、恨みを抱いた相手にはどんな手を使ってでも報復することで知られていました。このような人が権力を握ると、とかく問題を起こしがちなものです。

劉備によって益州が奪取されると、法正はその威を借りて、過去に恨みを抱いた相手や上司を次々と捕縛、処刑していきました。もちろんそれは、法律的根拠のない、文字通りの私刑、復讐です。

見かねたある人物が法正を処罰すべきであると諸葛亮に訴えますが、諸葛亮は「法正殿の功績を考えるとそれはできない」と答え、訴えを退けました。

諸葛亮は法正が性格的には自分とは真逆であることを知っていましたが、仕事の上では互いに協力しあう関係でした。それほど、法正は才覚にあふれた人物であったと言えるでしょう。

諸葛亮が嘆いた早過ぎる死

法正は劉備が漢中王の地位に就いた時、尚書令しょうしょれい、護軍将軍に昇進していますが、翌年、45歳で死去してしまいます。年齢からして病死だったと思われますが、劉備は法正の死を悼み、何日も涙を流しました。

法正は劉備の躍進を支え、力を尽くしましたので、その痛みは大きなものとなったのでしょう。劉備は法正によく候の諡号しごうを贈っています。劉備が臣下に諡号を与えたのは法正のみであり、これは特別扱いでした。

法正の死は、その後の蜀の行く末に大きな影響を及ぼしました。劉備は222年に、関羽の復讐と、荊州の奪還のために孫権そんけんに攻めかかろうとします。群臣達の反対に耳を貸さず、劉備は大軍を動員して攻めこみ、夷陵いりょうで大敗を喫しました。

諸葛亮はこの時に益州を守っていましたが、敗北の知らせを聞くと、嘆息しつつ、「法正が健在だったなら、主上を抑えて東征が実施されることはなかっただろう。たとえ東征したとしても、このような敗北は避けえたことだろう」と述べたと言われています。

そんな法正の後世の評価は?


正史三国志を編纂した陳寿ちんじゅは、法正と龐統を並べて評しています。

「龐統は日頃から人物評価をするのを好んでおり、経学と策謀に優れていた。そして当時、荊州や楚の人々から秀でた人物だと評価されていた。法正は成功と失敗をはっきり見きわめ、並外れた計画や術策を立てるのを得意としていた。しかしながら人徳についての称賛はなかった。彼らを魏の臣下にあてはめると、龐統は荀彧じゅんいく荀攸じゅんゆう、法正は程昱ていいく郭嘉かくかであろうか」

そして劉備に欠けていた物を完璧に補えた人物です。劉備は戦況の読みや撤退の見切りには優れていましたが、その情が裏目に出ることや、優柔不断な性格からも攻勢に出る決断が極めて遅く、勝機を逸する事が多かったのです。

そこで目的の為に手段を選ばない果断さと相手の性格から行動を読む洞察力を持った徹底したリアリストな法正は、まさにうってつけでした。

諸葛亮が、最も得意なのは統治や戦略といった分野であり、策謀は法正の方が得意でした。このため、法正の存在は諸葛亮にとっても重要であり、もしも彼があと10年ほど長く生きていたら、蜀の運命は大きく違ったものとなっていたかもしれません。

同時に、法正の役目を果たせる人材を他に得られなかったことが、蜀という国の限界だったとも言えるでしょう。

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