孫尚香と劉備の仲は悪かったのか?孫尚香とはどういう人だったのか?

皆さん,「孫尚香そんしょうこう」という名前をお聞きになられたことはありますか?

劉備りゅうびが40代の時に結婚することになった当時10代だったと言われる女性です。
劉備りゅうびは、生涯に4人の女性と結婚しますが、その中のひとりです。

曹操そうそうには、13人の妻がいた。と言われていますから、
トップのひとりであった劉備りゅうびの妻の数は、それほど、多すぎるわけではありません。

今回は、「劉備りゅうびとの仲が悪かったと言われている孫尚香そんしょうこうとはどういう人だったのか?」
を中心にお伝えしたいと思います。

孫尚香そんしょうこうとはどういう人だったのか?

孫尚香そんしょうこうの実兄は, 当時, 既にのトップになっていた孫権そんけん
孫権そんけん孫尚香そんしょうこうの母は呉国太ごこくたいです。

孫尚香そんしょうこうというのは、現在でも京劇で使われている名前で、「三国志演義」では孫仁そんじんという名前になっていますし、史実しじつでは、孫朗そんろうという別称べっしょうの方がよく使われています。

劉備りゅうびと結婚して以降は、多くの場合、孫夫人と呼ばれていた人物です。

武芸ぶげいにも優れていた活発な美しい女性として描かれていますが、同時にしょく劉備りゅうび側から見ると,おてんばだったようにも描かれています。

三国志の女傑じょけつランキングでは、いつでも上位にあがる名前です。

でも、どうして、のお姫様であった孫尚香そんしょうこうが30歳も離れた劉備りゅうびと結婚することになったのでしょうか?

孫尚香そんしょうこう縁談えんだんが持ち上がった時の状況


三国志のクライマックスのひとつである208年の「赤壁せきへきの戦い」。

南下してきた20万とも80万ともいう曹操そうそう軍を、孫権そんけん劉備りゅうび連合軍総勢5万は黄河こうが中流の水軍すいぐん戦で打ち破ります。

特に、の将軍の周瑜しゅうゆの活躍は, どのドラマでも描かれています。

周瑜しゅうゆは、孫権そんけんの絶大な信頼を得ていた武将で、孫家そんけを支える柱でした。
孫権そんけんの兄, 孫策そんさくの時代も軍事面で支えていたのは周瑜しゅうゆ
もちろん、孫権そんけんの母,呉国太ごこくたいの信頼も厚い人物でした。

劉備りゅうびが目障りな孫権そんけん

劣勢を乗り越え、曹操そうそうを破った孫権そんけん劉備りゅうび軍でしたが、赤壁せきへきの戦いの混乱に乗じて、劉備りゅうびは結果的に荊州けいしゅう占領せんりょうしてしまいます。(孫権そんけん側の見方ですが)。

そして、孫権そんけん側では、不満が募ります。

孫権そんけんは、しょく劉備りゅうびと何度も交渉を重ねますが、なかなか孫権そんけんの思う通りにことは進みません。

そこで、周瑜しゅうゆは、孫権そんけんに策を提案します。
それが、孫権そんけんの妹, 孫尚香そんしょうこう劉備りゅうびを結婚させるという案でした。

元々は、劉備りゅうびに呼び寄せて殺してしまう狙いでした。
劉備りゅうびにとって、多くの兵を連れず、へ赴くことには大変なリスクはありましたが、劉備りゅうびは行くことを決心します。

周瑜しゅうゆの策に気づく諸葛亮しょかつりょう

諸葛孔明しょかつこうめいは、劉備りゅうびへ赴くのにあたって、この婚儀こんぎのニュースがの民衆に伝わるように宣伝したり、事前に劉備りゅうびの影響力のある人物,喬国老きょうこくろうのところへ訪問させたりもしました。
喬国老きょうこくろうの長女(大喬だいきょう)は、孫権そんけんの兄, 孫策そんさくに嫁ぎ、次女(小喬しょうきょう)は、周瑜しゅうゆのところへ嫁いでいました。

また、諸葛孔明しょかつこうめいは、最も信頼できる将軍, 趙雲ちょううん劉備りゅうびに同行させました。

こうして、周瑜しゅうゆ劉備りゅうび暗殺あんさつ計画は失敗に終わります。

しかし、孫権そんけん周瑜しゅうゆが次に考えたのが、劉備りゅうびの足止め作戦です。
諸葛孔明しょかつこうめいをはじめ、しょくで待っている将軍たちも、劉備りゅうびにいる限り、具体的な行動が起こせないわけです。
周瑜しゅうゆたちは、劉備りゅうびを接待漬けにしようと計画します。
しかし、その手に乗る劉備りゅうびではありませんでした。

そして、最終的には、趙雲ちょううん諸葛亮しょかつりょうより授かった策を用いて、劉備りゅうび孫尚香そんしょうこう(孫夫人)を連れて荊州けいしゅうへ脱出することに成功します。

孫尚香そんしょうこうは、劉備りゅうびと共に荊州けいしゅうに脱出するわけですから、この段階で、二人が不仲だったとは、
考えられません。

なぜ、二人に不仲説が出たのか?


荊州けいしゅうで暮らすことになった孫夫人ですが、彼女の侍女じじょたちは皆、武装していて、劉備りゅうびも孫夫人の部屋には入りにくかった。と伝えられています。

また、孫夫人の故郷であるに対する思いや母親, 呉国太ごこくたいへの思いも小さくなかったはずですし、荊州けいしゅう劉備りゅうびに仕える将軍たちには、孫権そんけんの妹である孫夫が驕り高ぶっていると映る場合もあったのかもしれません。

事実、孫権そんけんの側でも、孫夫人をに戻したいという思いもありました。

孫尚香そんしょうこうに帰還する

そして、212年に事件は起こります。

孫夫人の元に、母親の呉国太ごこくたい危篤きとくであるという偽りの知らせが届きます。
劉備りゅうびは、そのころ、数万人の兵を率いて益州えきしゅうに赴いていました。

どうしても母親に会いたい孫夫人は、劉備りゅうびの幼い息子, 阿斗あと(後の劉禅りゅうぜん)を
連れての領内に戻ろうと実行に移します。

しかし、劉備りゅうびの留守中、荊州けいしゅうを守っていた趙雲ちょううん張飛ちょうひに見つかり、追われます。
そして、追いつかれた孫夫人は阿斗あと趙雲ちょううんたちに引き渡し、一人でに戻っていくことになるのです。

その後の孫尚香そんしょうこう(孫夫人)は?

その後、彼女がどうなったのかは、史実しじつ的には不明です。

ある物語では、に戻った孫夫人は、夷陵いりょうの戦いで劉備りゅうびが戦死したとの誤報を聞いて長江ちょうこうへ身を投げたという物語もありますし、

関羽かんう張飛ちょうひを失った後、に怒り攻めこんでくる劉備りゅうびの勢い対して、兄である孫権そんけんが妹の孫夫人に劉備りゅうびとの仲裁ちゅうさいを頼んでいるドラマもあります。

まとめ


いわゆる政略せいりゃく結婚に巻き込まれてしまった孫尚香そんしょうこう
30歳も年の違う男のところへ、越境えっきょうして嫁ぐことになったわけですから、現代の感覚から言えば、母の危篤きとくの知らせを聞いてに戻ろうとした孫夫人の行動には共感できる人も多いのではないでしょうか?

また、年齢の差から考えても、劉備りゅうび孫尚香そんしょうこうのわがままを聞ける人であり、孫尚香そんしょうこうにとって劉備りゅうびは我がままや無理を聞いてくれる存在だったのではないかと想像するのですが、皆さんはどのように思いますか?

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1 Comment

通りすがり

孫権の母=呉国太は誤認では?
史実には出てきませんし
演義でも呉夫人の妹だった気がします

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