蔡文姫(蔡琰)の生涯や最後の死因とは?曹操の寵愛を受けた理由は?

蔡文姫ってどんな人?博学かつ弁術に巧みで音律に通じた才女

名前は蔡琰(さいたん)、字は文姫。

某アクションゲームに登場し、一気に有名になりましたが、そのゲームのせいか、蔡文姫(さいぶんき)と呼ばれることの方が多いでしょうか。諸葛亮がよく諸葛孔明と言われるのと同じですね。

後漢を代表する文学者かつ歴史学者・蔡邕の娘であり、彼女自身は詩人とされていますが、音楽にも通じていたとのことです。

「悲憤詩」や「胡笳(こか)十八拍」という作品を残しています。

硬貨のモデルにもなっており、1992年に中国人民銀行より蔡文姫銀貨が発行されています。この銀貨は中国傑出歴史人物紀念幣の第9組目の記念硬貨に属し、同組には100元金貨の則天武后、その他5元銀貨の鄭成功、蕭綽・王昭君・花木蘭があります。

才女の片鱗を見せる幼少時代の逸話

蔡文姫には幼い頃からすぐれた才能を発揮していたことが、逸話として有名な話が残っています。

蔡文姫が幼い頃、夜に父である蔡邕が琴を演奏していました。演奏の最中に琴の2番目の弦が切れてしまい、別室で父の演奏を聴いていた蔡文姫が「2番目の弦」と言います。蔡邕が不思議に思い、試しにわざと4番目の弦を切ると、正確に「4番目の弦」と言い当てました。

蔡邕が「偶然だろうな」と呟くと、
「昔、呉季札は音楽を聞いて国の興廃を知り、師曠は律管を吹いて楚軍が戦に負けることを知りました。彼らのような音楽家がいたのです、どうして私が切れた弦を聞き分けられないと言うのですか」と言い返します。

それを聞いた蔡邕は大変びっくりしたとのことです。

この逸話は初学者向けの教科書の「蒙求」と「三字経」に取り入れられ、女性にも聡明な者がいることと、男子はこのような才女に見劣りしないよう勉学に励むべきだという教えに用いられています。

蔡文姫は音律に通じた人物で、この話からも音感が鋭かったことはよくわかりますが、幼い少女の故事の知識やこの切り返し方もすごいですね。彼女は後にその雄弁でも知られることとなります。

数奇な運命を辿った人生


大変な才女であった蔡文姫ですが、その人生はきわめて数奇で幸せとは言い難いものでした。

蔡文姫が最初に嫁いだ夫、衛仲道は結婚の翌年に亡くなり、早くして未亡人となり実家に戻ります。父の蔡邕も董卓を倒した王允によって牢屋に入れられ、亡くなっています。

打ち続く悲劇の後、またしても新たなる悲劇が彼女本人を襲います。董卓の残党による乱が起きた時、彼女はなんと匈奴の騎兵隊に拉致されてしまうのです。その連れていかれた先で、南匈奴左賢王、劉豹に気に入られ、嫁がされて側室にされてしまいます。左賢王(さけんおう)というのは匈奴王の左腕ともいうべき高官なので、側室とはいえその妃となると相当な地位と思われますし、二人の間にはロマンチックな愛情もあったとする物語もあるのですが、史実は少し異なるようです。

後漢書に蔡文姫が匈奴の騎兵に連れ去られた出来事が記されており、そこには「南匈奴の左賢王に没す」という文字が書かれています。この「没」という字は捕虜になったことを意味し、この字が使われている以上、彼女の結婚は漢代の王昭君のように、武帝の娘名義で匈奴の王に嫁した、というような晴れがましいものではないのです。

胡の地で劉豹の間には二児をもうけました。

再び漢の地へ

拉致されてから12年が経ち、突如蔡文姫に救いの手が差し伸べられます。

彼女の父、蔡邕と親しい間柄だった曹操が、蔡邕に跡継ぎがいないことを惜しみ、匈奴につかまっていると聞いた彼女を思い出すのです。しかし、この時207年。蔡邕が獄死したのは192年で、蔡文姫が拉致される前のことです。なのに何故曹操は今頃思い出したのでしょう?

とにかく、曹操は蔡文姫を漢の地に戻すため、貴重な金の璧(へき)を差し出して、匈奴から買い戻す交渉をするのです。後漢書に書かれているこの「買い戻す」という言葉からも、
彼女が匈奴の地で妃ではなかったことがわかります。一国の高官の妃を買い戻すことなどありえないからです。

こうして交渉は成立し、彼女は12年ぶりに漢の地へ帰ってくるのですが、この時、劉豹との間にもうけた二人の子供を、匈奴においてくることになり、別離の悲しみを歌った詩を作ります。

それが「悲憤詩」であり、「児こすすみて我が頸くびをいだき、母に問うにいずくにか之ゆかんと欲すと」(我が子が私の首に抱き着いてきて「お母さん、どこに行っちゃうの」と聞く)という悲痛な詩句です。

また、共に拉致された他の女達は、漢の地へ帰ることができる蔡文姫を羨んだとも書かれています。今から千年以上前の詩とは思えないほど、臨場感と真情のこもった詩です。

夫の助命嘆願で曹操を説得

蔡文姫は漢に戻ると、曹操のとりなしで、曹操の部下で同郷出身の董祀と結婚します。屯田都尉(とんでんとい)の役職に就いており、非常に優しく結婚した後も蔡文姫を大切に扱ってくれていましたが、何かしらの罪を犯して捕まってしまいます。

裁判にかけられ、判決が下されることになりますが、蔡文姫は夫が重罪を犯したわけではないので大した罪にならないであろうと考えていましたが、予想は外れ、何と董祀は死刑を宣告されてしまいます。

蔡文姫は夫が死刑になる意味が分からず呆然と立ち尽くしていましたが、すぐに行動を起こし、髪を振り乱し裸足のままで宴会の真っ最中の曹操の元に駆け付け、とりなしてくれるよう頼み込みます。

蔡文姫はボロボロの状態でありながらも、弁舌は爽やかで筋を通して夫の助命嘆願をお願いします。この言葉を聞いた曹操は「許してやりたいのが、もう死刑を執行するように送ってしまった」と助けることが不可能だと伝えます。

すると彼女は曹操に向かい「あなた様は大量の馬を持っており、近衛兵も多数従えております。にも関わらず死刑の執行を中止する早馬を出すこともしてくださらないのですか」と再度曹操へ死刑の執行を中止するように嘆願するのでした。

この言葉を聞いた曹操は大いに笑って「わかった、わしの負けじゃ。今すぐ早馬を出して死刑の執行を中止するように伝えよう」と言い、部下に命じて董祀の死刑執行を取り止めるように伝えました。彼女の必死の助命嘆願と爽やかな弁舌によって董祀は救われることになります。

董祀は無事戻ってくるのですが、残念ながらこの夫婦の縁も長くは続きませんでした。董祀はまもなく病で亡くなってしまうのです。

曹操の寵愛を受けた理由


曹操は蔡文姫の助命嘆願を聞いてあげた後、次は逆に曹操が蔡文姫に尋ねます。このタイミングでお願いされると、絶対に断れないですよね、その辺も曹操は計算していたのでしょうか。

「お父上の遺された膨大な書物はどうされたかな?」

すると蔡文姫は「戦乱の中ですべて焼けてしまいました。ただそのうちの四百余冊は私すべてをそらんじております」と述べます。

曹操は近いうちに人を数十人蔡文姫の家にやってそれを書き写させたいと提案しますが、「その必要はございません。私がすべて書き写せます。ところで楷書がよろしいですか?それとも草書の方が?」

蔡文姫は書家でもありました。こうして蔡文姫の手で書写された本の数は400巻程になり、すべて曹操に献上されます。その内容は確かめることはできませんでしたが、誤字・脱字が一字たりともない、完璧な状態であったそうです。蔡邕の書物は全部を後世に伝えることができませんでしたが、一部分は彼女の優れた記憶力のおかげで後世に伝えることができました。

曹操は優れた人材が大好きであり、曹操自身も武将としてだけではなく、政治家としても、さらに学者でもあり、詩人でもある素晴らしい文才を持っていました。息子の曹丕、曹植と併せて「三曹」と呼ばれ、曹操の下に集まった多くの文学者の内、特に名高い人物、孔融、陳琳、王粲など7人を「建安七子」と呼びます。これらをまとめて、「三曹七子」と呼び、建安文化を代表する文人とされている程です。

そんな曹操が同じ詩の分野で優れた蔡文姫を気に入るのは容易に想像できるのではないでしょうか。確かに親しかった蔡邕の娘、ということもあるでしょうが、やはり彼女自身のその才能に惚れこんでいたのではないでしょうか。

幸せな最期

後に蔡文姫は4番目の夫と結婚するのですが、この結婚は長く続き、この夫とともに仲良く暮らしたそうです。彼女の没年は明らかではないのですが寿命を全うしたようです。

数奇で波乱万丈な人生でしたが、最期は幸せに包まれて、安らかに眠ることができたのではないでしょうか。

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