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魏と蜀を代表する将軍である2人、実は親戚って本当?
どちらも三国時代きっての名将で、おそらく三国志初心者でも知らない人はいないのではないかというほどネームバリュー抜群の夏侯淵と張飛ですが、この二人が実は親戚関係にあることを皆さんはご存じでしたでしょうか?三国時代の第一人者・曹操と、その最大のライバルであった劉備。夏侯淵と張飛はそれぞれの君主の旗揚げ時からの最古参であり、超重要人物です。今回は、このちょっと意外な組み合わせともいえる二人の関係にスポットを当ててご紹介したいと思います。
どういう関係になるの?
ざっくりとお答えしますと、夏侯淵の姪の夫が張飛なのです。ちなみにこの姪は名前などが残されていないようで、夏侯一族の出身の女性を表す「夏侯氏」としか記録には残されていないようです。この記事の中でも、今後彼女のことは「夏侯氏」と表記していきます。
張飛と夏侯氏、二人の出会いは?
二人の出会いは200年、ある日張飛が薪を取りに山へ出かけたところ、夏侯氏と出会い、一目惚れしたのでそのまま攫って妻としたそうです。三国志でも屈指の豪傑の張飛らしくワイルド過ぎる馴れ初めですね。
などなど、色々とツッコミどころが満載ですが、「正史・三国志」の注釈にわざわざ記録されていることからも、張飛と夏侯氏の出会いの形としてはこれが公式とされているようです。
ちなみに結婚当時の張飛は33歳、夏侯氏は13~14歳であったそうです。今の時代の基準で考えるとだいぶ年の差カップルですね。三国時代においては、年の差婚はこれ以外にも山ほどありますし、夏侯氏の13~14歳という年齢で嫁いだ女性もいっぱいいるようですので、至って普通のカップルなのです。
夏侯氏ってどんな人?二人の間に子供はいたの?
張飛には4人の子どもがいたそうですが、そのうちの2人の男児(のちの張苞と張紹)については母親の記述がありません。
しかし2人の女児(のちの敬哀皇后張氏と張皇后)の母親はいずれも夏侯氏だったようです。さらになんと驚くべきことに2人とも劉備の息子で蜀の2代目皇帝である劉禅の妃となっています。
残念ながら夏侯氏の容姿についての記述はありませんが、三国志屈指の豪傑で、風貌についても所謂イケメンとは程遠い描かれ方ばかりの張飛の娘が2人とも皇后の母親なのですから、夏侯氏という女性は相当な美人だったのではないかなと推測されます。
名将・夏侯淵の最期
さて、話は変わって夏侯淵の最期についても少し触れていきたいと思います。
漢中奪取を目指す劉備は張飛や馬超らと共に自ら大軍を率いて漢中へと侵攻。そこを預かっていた夏侯淵は張郃や徐晃といった歴戦の武将を率いてこれに対抗します。三国志ファンならワクワクしてしまうようなオールスターが一同に会した両軍の攻防は熾烈を極め、一進一退を繰り返しました。
そして219年、定軍山にて劉備の本隊と夏侯淵の本隊が対峙し雌雄を決しました。劉備軍が夜襲をしかけると夏侯淵は軍を二手に分け、張郃に一軍を与えて東の守りを任せると、自らは南を守ります。
やがて張郃の軍は劉備に押されて危機に陥ると、夏侯淵はさらに軍を分け半分を張郃の援軍に向かわせました。すると今度は夏侯淵本隊のすぐ近くの防御柵に火がつけられたので、夏侯淵は兵をさらに分け、その修復に向かわせます。
そのタイミングで近くの高台から一軍が夏侯淵本隊を急襲したのです。その軍の将こそ五虎将軍の一人である黄忠でした。夏侯淵は寡兵ながらもこれに応じ、一時は体勢を立て直しかけたのですが、猛将・黄忠の率いる軍の圧力はすさまじく、ついに夏侯淵は討たれてしまうのです。
夏侯淵、守戦は不得手だった?
軍を高速で移動させる指揮に長け、奇襲戦法が得意であった夏侯淵が、奇襲戦法で敗れてしまったわけですね。「正史」においてはとりわけ騎馬隊を率いての異民族制圧などの攻めの戦を得意としていた夏侯淵ですが、守りの戦いというのは彼の戦歴を見てもこの漢中防衛が初めてだったのではないでしょうか。
経験不足ゆえに後手に回り過ぎてしまったのかなと推測することもできると思います。ましてや相手は有象無象の地方豪族たちなどではなく、戦闘経験豊富な劉備だったわけですものね。
曹操自身も夏侯淵の勇猛さを称える一方で、「時には臆病さも忘れずに、知略を用いて軍を動かしなさい」と説いていたようです。
三国演義では弓の名手として描かれる夏侯淵と黄忠
この夏侯淵と黄忠ですが、三国演義では両者とも弓の名手として描かれています。相対する場面では弓矢の腕前を披露するような描写をされていたりと、魏の名手vs.蜀の名手というライバル要素が盛り込まれることで、よりドラマティックな描かれ方をしています。
夏侯淵の息子・夏侯覇と夏侯氏
最後に触れておきたいのが、夏侯淵の息子・夏侯覇とその従姉妹にあたる夏侯氏の関係についてです。
夏侯覇は司馬懿が実権を握るようになった魏において暗殺を恐れ、蜀へと亡命をします。
魏の重鎮であった夏侯淵の息子を自国に引き入れるというのは、少なからず反発心を抱く武将や官も多かったのではと思いますが、そこで一役買って出たのが実は夏侯氏ではなかったかという説もあるようです。このことは夏侯覇が死後に諡号(しごう)を送られていることからも有力とみられているようです。
というのも、蜀においてこの諡号を送られているのは家臣では諸葛亮や関羽、張飛、趙雲などのビッグネームばかりです。その破格の待遇を受けているというのも、2人の皇后の母であった夏侯氏の影響力が大きかったのではないかと言われる所以なのかもしれませんね。
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