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劉禅ってどんな人?暗愚の代名詞と言われるが臣下の言葉に耳を傾けることのできる人
劉禅、字は公嗣。
幼名である「阿斗」の方が有名かもしれません。三国志の主人公?として扱われるあの劉備の息子であり、長坂の戦いで趙雲が劉備の正室、糜夫人から阿斗を預かり、たった一騎で敵陣を駆け抜ける話は有名かと思います。
そんな劉禅は「扶不起的阿斗」、救いようのない阿斗ということわざが残されているくらい、暗愚な君主の代名詞とされています。現代中国でも毛沢東が全人民に「阿斗になってはならない」と呼びかけたこともあり、その悪名は決定的となり、暗愚、無能の代名詞となっています。
しかし、彼はきちんと臣下の言葉に耳を傾け、きちんとその意見を取り入れることができる君主でした、呂布とは正反対です。
本当に劉禅はそこまで言われる程の暗君だったのでしょうか?その辺りを紐解いていきたいと思います。
「扶不起的阿斗」とは?
救いようのない阿斗、こう言われるようになったきっかけは、蜀滅亡の後、魏に投降していた劉禅は、その身柄を洛陽へ移されます。
そこでの宴会にて、司馬昭が「蜀が恋しくはないですか?」と尋ねたところ、劉禅は「いえ、ここは楽しい、蜀のことなど思い出しもしません」と答えたのです。
この答えに周囲は唖然とし、見かねた家臣が「あのような質問には『先祖の墳墓もある西の国(蜀は洛陽から見て西にあるため)を思い悲しまない日はありません』とお答えください」と諫めるのでした。
その一部始終がすべて聞こえていた意地悪な司馬昭は、再び同じ質問を繰り返します。すると劉禅は家臣に言われた言葉をそのまま答え、周囲は大爆笑したといいます。
そんな様子を見た司馬昭は、「こんな愚鈍な男が君主だったのでは、たとえ孔明が存命していたとしても、蜀は滅亡を免れ得なかっただろう」と呟いたと言われています。
この逸話から生まれたのが「扶不起的阿斗」、救いようのない阿斗、ということわざでした。
乳児期の壮絶な人生
さて、長坂の戦いをもう少し詳しく説明しようと思いますが、劉備は曹操に攻められ、混戦状態の中、大将が死ぬわけにはいかないと、いち早く逃げます。
この時阿斗は生まれたばかりの乳児でしたが、劉備の正室、糜夫人と行動を共にしていました。ちなみに生母は側室の甘夫人ですので、阿斗は嫡男として、正室の糜夫人に育てられていたのかもしれません。
阿斗は糜夫人に抱かれ、戦場を逃げまどいます。この際に糜夫人は致命傷を負います。馬車から転げ落ちたのか、敵兵に切りつけられたのか、きっと阿斗も怖い思いをしたのでしょう。
そこへ趙雲が単騎で駆け付けます、阿斗と糜夫人を救出に来たのです。糜夫人は趙雲に阿斗を託し、そして自分は何と、致命傷を負っていたため、足手まといになることを恐れ、井戸に身を投げて自殺してしまうのでした、いくら乳児とはいえ、阿斗の目の前で、義母が自ら命を絶ってしまうのです。
そして、趙雲は阿斗を抱いて、敵陣の中一騎で駆け抜けて、劉備の陣中へ戻ります、そこで父親と涙の再会…!かと思いきや、何と劉備は阿斗を地面に叩き付けるのでした!
「こんな子供のために、趙雲みたいな有能な部下をなくすところだった!」
と叫びます、完全な八つ当たりです、現代であれば間違いなく劉備のブログは炎上しているでしょう、その言葉に感激する趙雲の横で、地面に転がり泣きじゃくる阿斗、可哀想すぎます…。
もしかすると、趙雲の鎧の中で窒息状態になり、そして劉備に地面にたたきつけられたことで何らかの大きなダメージをくらってしまったのではないでしょうか?それが将来に影響を…、と思ってしまうくらいの酷い話です。
生母と死別し新たな義母は武器オタク
その後、生母である甘夫人も病で亡くなってしまいます。糜夫人、甘夫人共に亡くしてしまった阿斗はひとりぼっちです。劉備は忙しいのできっとかまってくれることもなかったでしょう。
甘夫人の死後まもなく、劉備の下には孫権の妹が嫁いできます。孫尚香、ここでは孫夫人としますが、この孫夫人、武器が大好きで、部屋をものものしい武器で飾り立て、侍女達にも武装させていたといいます。
彼女の部屋を訪れる時、劉備はびくびくしていたそうですから、きっと阿斗もそうだったのでしょう、それでも孫夫人と阿斗はだんだん親しくなっていきます。きっとすぐに母親を失った阿斗にとっては、孫夫人は大きな存在だったのでしょう。
しかし、劉備と孫権の関係が悪化してしまい、孫権は妹である孫夫人を呉へ呼び戻します。
この時、孫夫人は阿斗を一緒に呉へ連れて行こうとします。本人にとってはそれ程深い意図はなかったかもしれませんが、劉備の家臣からすると嫡男誘拐という大事件です。張飛と趙雲が追いかけ、孫夫人から力づくで阿斗を奪い返しました。
このように幼い阿斗の身には様々な事件が起きているのです。
白い糸は染められるままに何色にも変ずる
そんな阿斗、劉禅は実際どのような君主だったのでしょうか。
彼は配下の言に良く従う君主でした。孔明存命時はその言葉によく従い、彼が病没した後も蔣琬や費褘、董允といった有能な配下に支えられ、国政を維持していました。
劉禅は自分から進んで善政を敷くことはありませんでしたが、進んで悪政を行うこともなかったのです。呉の孫皓、晋の司馬炎、その他の時代でも唐の玄宗、明の万暦など、後半に暴君、暗君と化す君主は何名もいるのです。そんな風にならなかったというのは、良くも悪くも欲がなかったと言えるのかもしれません。
劉禅は主君としての積極性には欠けていましたが、臣下の言葉に耳を傾けることのできる君主なのです。
しかし、有能な臣下を引退、病死などで次々と失い、宦官の黄皓が宮中の実権を握ると、国政は乱れ始めます。この時、黄皓を止めることができる人材は、もはや蜀にはいなかったのです。
姜維は?と思われるかもしれませんが、彼は孔明の遺志を継ぎ、積極的に北伐を繰り返していました、それが国力を疲弊させる元凶ともなりました。
結局、劉禅が魏に投降したのも、臣下の勧めに従った結果でした。正史三国志を編纂した陳寿の評が
「白い糸は染められるままにどのような色にでも染められる」
すなわち臣下次第で良い君主にも悪い君主にもなる人物であるということなのです。
40年間もの長期間在位した皇帝
劉禅の皇帝としての在位期間は何と40年にも及びます。これは同時代に皇帝に即位した者達の中で、最も長い在位期間に当たります。
劉禅が在位していた時代の蜀は、謀反や反乱も起こらず、国が滅びるまでその地位を全うしました。彼が本当にただの暗愚な君主であれば、もっと早く皇帝の座を追われていたのではないでしょうか?現にあの袁術の即位期間はたったの2年であり、誰にも承認されず、臣下も彼を見放して離反していくのです。
もちろん彼が名君であったかと問われれば、それは違います。彼は凡庸であり、優柔不断で自分の意見を持たない、臣下の言に振り回されるだけの人物だったのかもしれません。ですが、安定した長期政権の中で、十分に有能な臣下に恵まれていれば、きっと安定して国を運営していったのではないでしょうか。
現代でもかつての日本政治に「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と言われていたことがあります。劉禅も乱世や大乱世では頼りにならない暗君ではありますが、平時ではその平穏な状態を末永く維持できる名君であったかもしれません。
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