郭嘉の生涯や死因と荀彧らとの違いを考察!曹操とはどんな関係だったのか?

郭嘉ってどんな人?奔放な自由人で曹操に最も愛された男

郭嘉、字は奉孝。

曹操軍の天才軍師として数々の功績をあげ、大変有名な人物で、ファンの方も多いのではないでしょうか。

曹操に最も愛された人物と言っても過言ではなく、曹操は一部で人材コレクターと揶揄されるくらいの人材が好き(これはどんな方でもそうですが特に)で、優秀な部下を数多く抱えています。この頃も荀彧や程昱、賈詡など大変優れた軍師がいた中で一番というのは凄いことです。

よく荀彧と比較されますが、荀彧はまさにマジメな優等生、という感じですが、郭嘉はあまり清廉な人物とは言い難かったようで、同僚の陳羣からは模範的行動に欠く、としばしば素行に関して咎められていたようです。

この素行の悪さの詳細は不明ですが、酒と博打のような享楽的なものを好み、女遊びはしなかったようです。今で言うと仕事の時はしっかりとしているが、遊ぶ時はしっかりと夜の街で楽しむ、という感じでしょうか。

仕事とプライベートの切り替えがしっかりしており、とてもバランス感覚がよい、まるで猫のように自由奔放で飄々としていたのではないでしょうか。そんな才能抜群のワルキャラ的なところも魅力の一つであると言えます。

同僚・荀彧らとの違いは?


郭嘉と一番比較されるのは同じように曹操に信頼されていた荀彧が一番ですが、他にはやはり賈詡、程昱、荀攸ではないでしょうか。

荀彧は国家戦略の基本方針を進言したり、補給の面倒を見たり、一番近くでまさに国の柱となる最も重要な役割をこなしていました。

賈詡は曹操を後一歩で倒せる程追い詰めたこともある策略家で、曹操に仕官してからは内政担当、まさに政治家でありました。

程昱は実は将軍もこなせる武力も持っているオールラウンダー、荀攸は戦術立案の達人といったところでしょうか。

郭嘉は主任参謀として、軍事に関することに特化しており、政治的なことは一切やっておりません。

どうして曹操に仕官したの?曹操陣営に加わったきっかけ

当時曹操軍には戯志才という策謀の相談役がいましたが、早くに亡くなってしまいました。

そこで後継者を誰にすべきか荀彧に相談したところ、荀彧は同郷頴川出身の郭嘉を推挙しました。信頼している荀彧の推薦ということもあり、会ってみて天下についての議論をすると、大変気があったようで、お互いに大満足して郭嘉は幕僚に加わりました。

曹操は「わしの大業を成就させるのは、必ずやこの者だ」と言い、郭嘉も退出するなり「真に我が主君だ」と言って喜んだと言います。軍祭酒(曹操軍の属官の筆頭格)に抜擢され、曹操を大いに支える重臣となっていきます。

郭嘉も当時、好んで浪人していたわけではなく、袁紹に仕えようと思ってその元を訪れたことがあります。当時の勢力図からすれば、大手の一流安定企業の一番手は四世三公の名門、汝南袁氏の袁紹軍でした。なのでまずそこに勤めたいと思うのはごく自然なことです。ですが、袁紹の器量に失望し、同郷の郭図や辛評にあの殿様はダメだわ、と伝えて去ったと言われています。

袁紹のダメダメエピソードは数多いですが、荀彧にも逃げられていますし、ここでも残念過ぎますね。後ほど曹操が郭嘉に袁紹の対処を相談した時、「公には十の勝因があり、袁公には十の敗因があります。それは道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武でございます」要するに仕事の能力、人間性含めてすべての部分で袁紹は曹操に劣る、とそこまで言いますか?というくらいのボロクソです。

郭嘉は予言者?どんな人物だったのか

郭嘉は情勢の見通しが常に適格で、あらゆる情報を駆使し、そこから導かれる最適解を常に計算していました。まるでプロのチェスプレイヤーのように何千何万手先を読んでいたのかもしれません。その結果が先を読む能力の高さに繋がり、数々の予言を残し的中させています。

孫策の死を予言し、劉備が呂布に追われて逃げてきた時にも、英傑となる人物なのでここで殺すべき、生かしておけば後に大いなる災いとなる、と進言していますが、事実その通りになっています。袁紹没後の後継者争いの行方も見事に言い当ており、恐るべき洞察力と慧眼の持ち主と言えます。

その能力をフルに活用し、呂布討伐や、情勢定まらない中原での袁術、劉備、孫策、劉表の動きについても見事な見解を示し、袁紹没後の後継者争いの行方も見事に言い当て、袁譚との折衝や冀州平定にも貢献しています。兵は神速を貴ぶ(兵貴神速)、という言葉も有名ではないでしょうか。

早過ぎる最期

郭嘉は北方からの帰途で発病、そのまま帰らぬ人となりました。享年38、余りにも早過ぎる、まさに「夭折」という言葉がこれ程似合う人はおりません。

曹操はこの時52歳、陣営でも荀彧45歳、程昱65歳、賈詡59歳という曹操陣営で、飛びぬけて若かった郭嘉に後事を託そうと考えていましたし、自分の子供達に近い年代でもあり、仕事以外でも気の合う最も愛した男の死をとても嘆き悲しみました。その嘆きをいつまでも引きずり、思い出す場面はよく出てきます。

一番有名なのは赤壁の戦いでの、「もし奉孝がいてくれたなら、このような負け戦はしなかったろうに」の言葉ではないでしょうか。曹操は何かを失敗する、敗北する度に「もし奉孝が生きていたら」と嘆いていたようで、このことがどれ程彼を想っていたかを現す反面、残された者達には亡くなった天才と比べられる程辛いことはなく、特に荀彧にはこのことが影を落としてしまいます。

病死と言われているが本当の死因は?

郭嘉の死因は病死と言われており、それが直接の死因であるのは間違いないと思います。正史によると、曹操の河北平定のための烏丸征伐に同伴していた中、病魔に侵され、柳城から帰還した後に病が重くなり亡くなったという事になっています。

この河北平定のための遠征がなければ病にかかることなく、亡くならなかったのでしょうか?曹操が郭嘉の死後、荀彧に与えたその死を嘆いた手紙に、持病があったことをにおわせる記述があります。一節を抜粋しますが「人間の多くは病を恐れるものだ、南方には疫病があり彼が常に言うには『私は南方に往けば、生きては還れまい』と」その後の一節「これはただ忠義心から計画されただけではない、必ずや功を立てんと欲して生命を削り棄てる事を覚悟していたのだ。」

ここに単に病気を恐れていたわけではなく、以前から持病があって体が弱いのに、それを恐れず、命を削ってでも大事を為そうとする覚悟に曹操は感動しているように感じます。もしかすると何か持病を持っていたのかもしれません。

ただ、郭嘉の働きは現代の働き方改革への流れへ持っていったブラック企業さながらの過酷な労働でした。もちろん本人が望んでやったことですので、一概に同じとは言えませんが。なので直接的な原因は病魔ではありますが、過労死と言われても仕方がないかもしれません。

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