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文官から始まった呂布のキャリア
呂布が初めて史書の登場したのは当時并州を収めている丁原に仕えていた時です。
丁原はこの時并州刺史・騎都尉に任命されていました。
呂布は丁原から主簿に任命されています。
この主簿という位は主に会計や文書作成・印綬の管理をします。
そうです、主簿は完全な文官職なんです。
呂布といえば赤兎馬にまたがり方天画戟を手に戦場をかけ回るイメージが強いですが、
実は会計などの教養も持ち合わせていたのです。
主簿はそれら以外にも現在の秘書官のような立ち位置でもあったようです。
丁原は呂布を寵愛していたので、すぐそばにおいておける主簿にしたという話もあります。
三国時代の有名な主簿
主簿は三国時代、文官の登竜門的な立ち位置で、
しかも多くの場所に置かれていました。
そのため、三国時代の有名人でも多くの人が主簿についています。
そのなかから数人紹介します。
廖化
廖化は関羽の腹心として信頼され、蜀の建国から滅亡までを生き抜いた男です。
その年齢は一説では100歳以上とも言われています。
襄陽出身だった廖化は、荊州がまだ劉備の領土だったころに、
荊州総督だった関羽のもとで主簿についていました。
司馬懿
三国時代の終焉、晋の基礎を築いた司馬懿もまた主簿を経験しています。
もともと才に恵まれて周りからの評判が良かった司馬懿を
人材マニアの曹操が見過ごすはずがなくスカウトします。
しかし、曹操に仕えたくなかった司馬懿は病を理由に辞退してしまいます。
結局、このウソはバレてしぶしぶ曹操に仕官する司馬懿ですが、
この時ついた職が主簿だったといわれています。
同じく文官から武官になった楽進
楽進もまた文官から武官として出世した人物です。
楽進はもともと小柄だったらしくそのため会計係になったともいわれています。
しかし、曹操は楽進の将軍としての器を見抜き、武官の道を歩ませます。
その後は袁紹との戦いで淳于瓊を討ち取ったり、呉から合肥を守り抜いたりと
曹操軍の中でも抜きんでた活躍をします。
最終的な階級は右将軍にまで出世します。
右将軍は左将軍と同等格の位でこの時の左将軍は、
曹操が大きく信頼を寄せている于禁でした。
転機は董卓との出会い
三国志きっての暴君・董卓も洛陽に入ったばかりの時は、
まだ小規模な軍勢しか持っていませんでした。
そのため、丁原の軍勢を奪おうと董卓が考えたことは
養子の呂布をそそのかし提言を殺害させることでした。
普通なら義父である丁原を裏切ることなどありえないと思いますが、
そこは常識では測れないタイプの武将・呂布は自ら丁原の首を切り
董卓に臣従するのでした。
武官として董卓に仕える
董卓の臣下となった呂布は、新たに董卓を養父とし
位は騎都尉・中郎将そして都亭侯に封じられたのでした。
騎都尉・中郎将ははともに皇帝直属の軍・近衛軍の指揮官の一つです。
平時は皇帝や宮殿の警護をしています、
戦時には部隊を率いて戦うこともありました。
また、黄巾の乱当時曹操がこの騎都尉に任命されて、
黄巾党討伐に従事しています。
ちなみに騎という名が示す通り騎馬隊を率います。
武官として大きく飛躍
呂布は異民族出身ではないかといわれている。
その大きな理由が馬術と弓術に長けていたからです。
そして呂布は前漢の猛将・李広になぞらえて飛将と呼ばれるようになっていました。
その後は、孫堅に負け長安に逃げそこで王允と共謀して董卓を殺害。
一時的に長安を手に入れるも李確・郭汜に敗北し逃亡しています。
「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と呼ばれたのはこの後のことです。
もし呂布が丁原を裏切らなかったら
ここから先はただの想像というか妄想になります。
もし呂布が丁原を裏切らなかった場合、
洛陽に入ったばかりの董卓はどうなったでしょうか。
結果として、丁原は董卓には勝つことはできなかったでしょう。
まず董卓が率いるのは西涼軍、中華でも屈強な騎馬隊として知られています。
対する丁原も騎馬民族とゆかりのある并州を本拠地としています。
両者の兵の差がほとんどないと考えるとあとは兵数と将軍の差で勝敗が決します。
兵数は董卓軍のほうが少なかったようですが、将軍の差が致命的です。
まず丁原は騎馬を巧みに操り弓も得意としていましたが、
政務能力は低かったらしく思慮が深いタイプではないよう。
また、賊徒を討伐の際にはいつも戦闘で戦いに参加していたそうです。
これでは先頭の丁原が倒れた場合負けが決定しています。
いくら呂布が強くても大将の丁原が死んでしまっては元も子もありません。
対する董卓ですが、このときまだ参謀として名高い李儒はまだいません。
董卓自身もあまり戦争が特段うまいわけではありません。
黄巾党に負けたりしていますし。
ただこの時には徐栄という武将がいたことでしょう。
この徐栄、演技では夏侯惇に殺されるという
ただの噛ませ犬ですが正史では董卓軍一活躍したといっても過言ではありません。
その理由は反董卓連合軍で唯一董卓を苦しめた孫堅を撃破しているからです。
孫堅は戦にめっぽう強く戦場で数々の勝利を挙げた猛将です。
その孫堅を破った徐栄がいることこれが董卓軍の勝利の要因だと思います。
はい、そういう声があると思っていました。
しかし、呂布は徐栄が倒した孫堅に負けていますし
李確・郭汜にも負けています。
徐栄より呂布が強いとは少なくともこの時点では思いません。
それに董卓は意外と悪知恵が働くことも大きな要因でしょう。
呂布をそそのかしたこともその一つですし、呂布が裏切らなかった場合も
別の手を考えていたことでしょう。
結局、丁原は負けるべくして負けたと考えています。
董卓には徐栄が居た!!!!え〜?ホントにござるか〜?徐栄は董卓死後の動向から漢朝生え抜きの将軍だと考えられます。この場合、李儒同様董卓が洛陽を支配するまで彼の指揮下に居たとは考えられません。尤も、この時点で董卓配下には一族の董旻、娘婿の牛輔、四天王格の樊稠、張済、李傕、郭汜、演義で名を揚げた華雄、張済の甥の張繍、他にも胡軫、李粛など錚々たるメンバーが既に指揮下に居たと考えられます。対して丁原麾下には武将としてでは無いが呂布、まだ無名の張遼・高順・演義で呂布八健将とされた武将の幾人かが居たとする説が在るくらいで、仮に後の徐州呂布軍のフルメンバーが揃って居たとしても経験と頭数で劣り、丁原が勝てる未来は見えませんが。